寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十七 @)―
 先月号で見てきましたように、釈尊は、この世は苦の世界であると見抜かれ、そしてその苦しみの出所は人間の燃えるような欲望の苦しみの出所は人間の燃えるような欲望の心であると、断定されました。この苦の世界から解脱する方法として、「苦集滅道」という四つの真理(四諦)を示されたのでした。この号から、その一つ一つの真意に迫ってみたいと思います。
 ――「苦諦」(この世の一切は『苦』なりと徹見すること)――
 『苦』とは、己の身が少年から青年に、中年から老年になり、終には病気になって、あるいは不慮の事故に遭うて死んでゆく…。いわゆる生老病死と変化する不安に思い「いつまでもこのままで居たい」とする焦りを抱く様子ではないでしょうか。もちろん、誰しもがいずれは露の如く消え去る、無常そのものの自分であるから、自分の持ち物は何一つとして無く、お返しするときは、潔くお返ししたい…と思っています。とは言うものの、現状維持を欲する思いがより強いものだから、あれこれと心が思い患い移り変わって落ち着かない様子を苦といいます。この苦の内容を深く受け止める、言い換えれば、苦を苦として受容できる境涯を、ここにある「苦諦」と言うてもいいでしょう。「諦」とは、物事の理を明らかにして、自分のものとするという意味で、世間でいうているように、諦めてものを投げ出す、あるいは、あがくのを止めるということではなく、そのことに成りきるということです。この「苦諦」には八種の苦があるとされています。このことは何気なく「四苦八苦」という言葉で一般に使われています。「四苦」とは、さきの生老病死のことですが、それに加えて「怨憎会苦」「愛別離苦」「求不得苦」「五盛蘊苦」の四つがあるとされています。これを「八苦」と申します。まず「生苦」とは、過去において知らず知らずにやってきた行為(身口意の三業)が因となり果となって輪回する苦しみで、これを「宿業」とも呼んでいます。次に「老苦」とは、死に対する恐怖、あるいは若い頃と今の身とを較べて、先行き不安から生まれる苦しみです。例えば、
 ◎手は震え、足はよろめき歯は抜ける。耳は聞こえず、目はうとくなる。
 ◎くどくなる、気が短くなる。愚痴を言う、死にたくなる、淋しがる。それでも自分の存在を誇示したいが為に…
 ◎世話をやく、出しゃばりたくなる、何でも聞きたがる、達者自慢に人は嫌がる…のであります。
 (H11.12月 平林一彦様よりの寄稿 その十七 Aに続く)









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