寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十七 A)―
 次の「病苦」とは申すまでもなく、此の身がくずれて変化してゆく苦痛であります。「法句経」(一四六)に「命は常に燃え尽きんとするに、何を喜び何を笑う、汝は今闇に包する、何ぞ禅定(真実の自己みつめ)を求めざる」とあります。私も二十数年の間、不治の病と言われる持病と付き合っています。この事実と向き合って坐禅をしているうちに、病人は病人としてやらなければならないことがいくらでもあるから「わしは病人だから…」といって後ろ向きになる暇も無いことに気が付いたのです。今頃の私の生活は、何といっても坐禅中心の日々ですが、遊びとして「自分史」を書いたり、粘土いじりの仏像造りなどをしています。こうしていますと、病気というものも山野に遊んで棘にさされたようなもので、それで結構楽しいものである。きざな言い方かもしれませんが、山野に遊ぶも病気に臥すも私一人のものですから、いくらわめき悲しんだとしても、誰も手助けしてくれないばかりか、周囲の人に迷惑をかけるばかりです。今の病気から逃げようとせず、自分の持ち物としてのこの病気を誤魔化さずに、親しむに如かず…。更にきざなことを言わして頂けるなら、病気には三つの得があると考えるのです。その一つは、今、此処に、斯うして、生かされているという自覚と、精神的な強さのようなものが、知らず知らずのうちに醸成されているように思うのです。その二つは、無常と言われている自然の移ろいに対して起こる、細やかな感情によって、もののあわれさを実感できること。その三つは、ここに、こうして生かされている私というこの者の存在に、私の自由になる持ち物は一切なく、何者か私にはわかりませんが、その大いなるお方のご意志のままに、今、斯くあることに気付くことはできたのです。そして、その大いなるお方に対して祈らねばおれない気持ちを頂くことができた、ということです。このことについては、私の経験から申したいことがありますが、紙面の都合上次に移ります。私たちにとって「死苦」ほど痛切なことはありません。いかに父母であれ、自分の愛しい子であれ、迫り寄る死から救うことはできません。ただ「死にとうない、死にとうない」と思いながら、此の世から露のように消えていくだけです。ですから、いつまでも生き続きけたいと思っても、また、今すぐ死にたいと思っても「命」というものは、自分勝手にどうこうできるものではないということを、覚悟しなければならないと思うのです。畢竟、この命は得体の知れない大いなる者から、一時お預かりしているというか、お借りしているとしか思えないのです。道元禅師は「修証義」の冒頭で「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」と言うておられますが、これは生死の問題を解決しなければ、真の生き甲斐は無い!と、教えて下さっているようにも解せられます。ではその生き甲斐とはどういうことかと言えば、死という事実から目をそらさず、即今只今、やらなければならないことを着実にこなして、架け替えのない今を悔いのないものとするために、懸命に生きようとする態度だと思うのです。以下は、次号にゆずります。
 ――人生は大きな謎である。この謎を追い続け、その謎が解けないまま私は無意識のうちにその謎を行じてゆくのです。そしておそらく、この謎の世界に消え去ることになるでしょう。――
 (H11.12月 平林一彦様よりの寄稿)










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