寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十六)―
 先月号では、六根(眼耳鼻舌身意)の向こうに立つ六境(色声香味触法)に対することによって、自然と心の働きが起き、この積み重ねによって五蘊(色受想行識)という迷いの世界を自らが作ってしまう。そしてその苦しみを文章として心の中に書き込んで離そうとしないような、自縄自縛の迷界に住む私に対して「五蘊皆空と照見せよ」と示して下さったのでした。そのお言葉どおり、坐禅のときはもちろんのこと、日常生活の立居振舞の中で私の身内の中味を調べてみますと、全くそのとおりで、いわゆる「五蘊」と呼ばれるようなものは無かったのでした。もし「五蘊」といわれるようなものが有るとしたら、それは大自然の摂理という自分の力ではどうにもならない、いわゆる公のものを私物しようとする気配があるからではないでしょうか。そこで道元さまは、次のように説示されるのです。
 (四十四)「般若波羅蜜十二枚、これ十二入なり」
 私たちは、眼にあっては色、耳にあっては声、鼻にあっては香を、舌にあっては味を、身体では寒暖などを感触します。そして、こうしたひとコマひとコマに起こる意(心)の働きによって、法としての日常生活をその人その人が独立して営んでいます。こうした、自分を取り巻く環境の中に自分を丸ごと投げ入れて、その場その場のことに応じて働いているその人の上に「十二入」という世界が現じているというのです。「十二入」とは、十二の入処という意味で、私たちの根本的認識器官である「眼耳鼻舌身意(心)」の六根を、六内入と呼び、認識の対象となる「色声香味触法(一切の存在)」の六境を、六外入と呼び、合わせて「十二入」となります。そして、この六根と六境の一つ一つが般若波羅蜜という、生まれた時から持ち合わせている智慧(心の働き)であるから、十二枚の般若波羅蜜である、と道元さまは言われるのです。では、私のような凡夫だらだらのものでも般若の智慧を持っているのだろうか?というような疑問が起きるのです。このことについて前号で道元さまは、「たしかに般若の智慧となる種子は持ち合わせているが『五蘊皆空と照見する』そのことが般若の智慧であるから、坐禅を中心とした日常生活の中で、自分の肚の中をよく調べてみて、まさしく五蘊は皆空であったワイ!と冷暖自知し得て初めて『般若の智慧』の持ち主といえるのである」と言うておられるのです。だから「般若の智慧」と言う時、私たちの「いま」「斯うして」「此処」に在る、生きた経験そのものでなくてはならないのです。もしあなたが「五蘊皆空と照見した」と言われるのなら「あなたがその眼で、今見ていることが般若ですか?あなたが今その耳で聞いていることが般若ですか?今その鼻で香を、今その舌で味を、今その身体で感触していること、そしてこれらをあなたが認識している心の働きそのことが般若ですか?」とお尋ねしたい。もしイエスと答える人が有ったならば、更に「では、あなたが今見ている物、聞いている声、嗅いでいる匂い、口にある味は一体何ですか?そして、そのものとあなたとは別々ですかどうですか?」と尋ねるでしょう。昔、霊雲という人は桃の花を見て、また香厳という人は竹に石が当たった音を聞いて、般若の智慧の持ち主である自分であったことを悟ったといいます。さあ、あなたはどうですか!
 (四十五)「まだ十八枚の般若あり。眼耳鼻舌身意、色声香味触法、および眼耳鼻舌身意識等なり」
 前段で見ましたように、六根(眼耳鼻舌身意)と、その向こうに立つ六境(色声香味触法)が立てば、その一つ一つに意識の世界が生まれます。これを「六識(眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識)」と申します。これらを全部合わせて十八ありますから、「十八枚の般若あり」と言われるのです。そして、その一つ般若(智慧)の働きは「見ようと思わずして物を見」「聞こうと思わずして音や声を聞き」「嗅ごうと思わずして匂いを感じ」「味を知ろうと思わなくても口に入れば味を知る」ようになっています。これほど完備された我々のこの身体ですから、何一つ不自由ということはない筈です。ところが、私のような凡夫は欲望が欲望を生み、これ以上の自由を探し求めるのです。こうした私に対して釈尊は、自分が悟りを開いた体験から、四つの真理を示して下さるのです。
 (四十六)「また四枚の般若あり。苦、集、滅、道なり」
   釈尊は、ご自分が開かれた悟りを何とかして世の人々に伝えたいという願心から「四つの真理」にまとめられてお示し下さるのです。これを「四諦の法内」と呼んでいます。「諦」とは「明らかにする」という意味で、真理というのと同じです。まず釈尊は、人生は苦であると明らめられました。これが「苦諦」です。そして、その苦しみから脱けるために、苦となる原因を探られました。それが「集諦」です。では、その苦しみは何が原因で生まれるのか…それは、燃えるような「欲望」があるからである、と見抜かれました。そこで釈尊は、この欲望(煩悩妄想)から解脱するために「減諦」を示され、悟りの境地を説かれるのです。「減諦」とは、欲望の炎が全く消えた境界です。では、どうしたらその悟りの境地に入ることができるか…。その方法を示されたのが「道諦」であります。以上、簡単に見てきましたが、次号でもう少し詳しく見ることにしましょう。
 ――今日もまた 地獄の底の鬼どもを 集めて 相撲をとらせ 遊ぶも――
(H11.11月 平林一彦様よりの寄稿)








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