寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十五)―
 (四十二)「観自在菩薩の、行深般若波羅蜜多時は、渾身の照見五蘊皆空なり」
 ご存じのように「般若心経」は、「観自在菩薩が、般若波羅蜜多を行じる時、五蘊は皆空なりと照見して、一切の苦厄を度し給う」という、我々凡人が読めば不可思議な境界を説く句から始まっています。これは「私が頂いた般若心経」の段で勉強したので、この意味はお分かりのことと思いますので、ごく簡単にもう一度申します。観自在菩薩が、深甚微妙な「般若波羅蜜多を行ずる時」つまり悟りという智慧の完成を実地に行じていた時「五蘊といわれている『色受想行識』…言い換えれば、自分も、自分を取り巻く環境(精神と物質)は一切空である」と悟られて、一切衆生の苦しみを救われたという意味でした。道元さまは、この句を批評されて「観自在菩薩の、行深般若波羅蜜多時は、渾身(全身)の照見五蘊皆空である」と申されるのです。ところで「観自在菩薩」というお方はどこにおられるのでしょうか?その居場所が分からない間は、いくらこの「心経」を唱えてみても春の田園で蛙が啼いているようなもので何の役にも立ちません。ある時「観自在」という菩薩さまが、大衆に説法しておられますと、一人の修行者が進み出て「この補陀落山に観自在菩薩さまが住んでおられると聞いて、あちこち探してみましたが皆目分かりません。御存知なら教えて下さい」と、お願いしました。すると観自在菩薩は衿を正して坐りなおし、ジッとその修行者を見つめていたが「わしが今、ここでこうしている目の前にござるぞ!」と示されています。ということは、この「観自在菩薩」という観音さまは、この五尺の肉体の外に求めているようでは、永遠に出合うチャンスがないということになります。今から七年位前のことですが、円通寺補陀落山の観音巡りをなさる方々の道案内をさせて頂いたことがあります。その時、一人だけ観音像を見つめたまま立っておられる中年の紳士がありました。私は引き返して先を急ぐよう促しましたら、そのお方が「私はどうも不思議でならんのです。この観音さまは石を刻んで造ったものなのに、なぜ皆さんは有り難そうに合掌礼拝するのか…。私に信仰心が足らんからそう思うのでしょうかね」と言われるのです。私はその言葉にびっくりしまして「あなたが言われるように、この観音像が石を石工が刻んで出来ています。全く信仰心の無い人でしたら無視して通り過ぎるところですが、あなたは先程から心経を唱え、合掌しておられました。その様子がそのままが、活きた観音さまのように私は思うのですが…」と答えましたら、びっくりしたような顔をされたことを思い出すのです。このように、本来この身このまんまが「観自在菩薩」であると自覚したならば、坐禅に精を出して悟りの智慧の完成のため、修行しなければなりません。これを実践されているときのあなたの全身が「観自在菩薩」であり、そのまんまが「渾身の照見五蘊皆空」の悟りの当体である…と言うのです。だから観音様をいたずらに外に求めて、自分の身内であるところの観音さまを見失ってはならないのです。古人は、この「観自在菩薩」の字意を解して「『観ずれば、自分に在る、菩薩』ということである」と言うておられますが、的を射た言葉であると思うのです。従って、我々が深般若波羅蜜多を行じている時…つまり、此の身全体をそこに放り出して坐禅している時、此の身丸ごとが「五蘊皆空(悟りの当体)」なのだと言われるのです。では、その「五蘊」とはどんなものかと申しますと、道元さまは次のように言われるのです。
 (四十三)「五蘊は、色受想行識なり、五枚の般若なり、照見これ般若なり」
 五蘊とは、色受想行識の五つで組み立てられていると言われます。まず「色」とは、我々を取り巻く物質的現象であり、「受想行識」は我々の心の働きのことです。これを細かく説明しますと、紙面が足りなくなりますので、ごく卑近なところで申しますと、例えば、今こうしてペンを走らせていますと、愛犬シロが「ワンワン」と鳴き出しました。これが「色」で、その犬の鳴声は私が聞こうと思わなくても、この身全体で「受」けとめます。そして、誰かきたのかなー、と「想」いながらペンを置いて、自然に、全く自然に犬の鳴いている方向に「行」きます。すると禅友が訪ねて来てくれたことを「織」ります。この一連の出来事は、私の心のはからいの無いところで有った事実だけであります。こうしたことは、日常茶飯事の上で、いつでもどこでもやっていることなのですが、気が付かないだけであります。このように、誰に教えられたでもなく、無心に働いていることが、般若の智慧であり、それを具体的に「色」般若、「受」般若、「想」般若、「行」般若、「識」般若と教えてみせられて「5枚の般若」といわれるのです。しかし、道元さまがそう言われるのだからそうだろうと、考えただけでは真の般若とは言えません。ここはどうしても「五蘊皆空なり」と「照見する」…言い換えれば、自らがそれを体験的に自覚して身に付けなければ「般若」とは言えないのです。逆に言えば「五蘊皆空なりと照見する」という「照見」そのまんまが「般若」であるというてもよいでしょう。
 ――粗衣脱いで 十字架となりし 案山子かな――
 (H11.10月 平林一彦様よりの寄稿)









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