寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十四)―
 ある修行僧が道元さまに「お釈迦さまは暁の明星を一見されてお悟りになり、香厳禅師は小石が竹に当たってカチン!という音を聞いて悟っている。その他、桃の花を見て自分というものが何者であるかを明らめたり、旗竿を仕舞うために倒したところで佛道を悟ったなど、中国の禅の修行者は一言半句のもとに悟っている人が多いのですが、そういう人たちは必ずしも坐禅によって悟った人たちばかりではないと思うのですが…」と、道元禅師が主張される<只管打坐>を貶したような問いをしました。この問いに対して道元さまは次のようにお答えになられるのです。
 (三十九)「直下に第二人なきことを知るべし」
 お前さんのような考え方では、一生かけても悟る日はあるまい。なぜなら、自分と他人(他の者)を分けて見ている気配があるからじゃ。ただちに『この自分を離れての物は、一切ない!』と、このわしと話を交わしているその場の「直下」という処で、ハッキリ知らなくてはならぬ。お前さんがさきに言うた歴代の祖師は、坐禅によって「第二人なきことを」体験的に自覚されていたからこそ悟りを得られたのであって、決して坐禅をなおざりにされていたのではないぞ!と。「直下」とは、日常の立居振舞の足元ということで、そこで見たり聞いたり嗅いだりすること自体、この身体を離れていない…言い換えれば、物と我とが一如である、ということです。この様子がとりもなおさず「第二人なき」底の真実の自己(天上天下唯我独尊)でもあります。この端的を白隠禅師は「無相の相を相として、行くも帰るもよそならず」と唱っておられますが、これが先にも申しました「自分を離れて物はない」ということを、体験的に自覚した者の日常生活の様子です。ここでまた、ある修行者が道元さまに問いました。「我が国は印度・中国とは文化とかそこに住む人の人間の素質など、多くの違いがありますが、そういう言わば素質の異なった我々が坐禅しても、和尚さまが言われるような佛法を悟ることができるのでしょうか?」と。この質問に対して道元さまは、次のように答えておられます。
 (四十)「人みな般若の正種ゆたかなり。ただ承当すること稀に、受用すること未だしきならし」
 と。確かに釈尊は印度にお生まれになり、佛教を印度に広められた。そして八祖達磨大師になって中国に佛教の種子を蒔かれた。ようやくその果実が熟すに及んで、その甘露な味を求めて日本の僧の多くが中国に渡来したのである。この事実から見ても、印度や中国のみならず人間であるならば「般若の正種ゆたか」に具えていることが理解できるであろう。もし「般若の正種(佛となるべき素質)」を具えていなかったら、命懸けで日本海の荒波を渡ってまで、佛教を学ぶために中国には行かなかった筈である。要するに、素質の有無、優劣に関係なく正しい指導者について正しい修行をしてゆけば、誰でも区別なく悟ることができるのである。「ただ承当すること稀に、受用すること未だしきならし」…このように人間は、般若の正しい種子を豊かに具えているのであるが、ただ自分が持っている般若の智慧を「承当(受け取る)」する人が少なく、それをこの身に受けて用いようとすることが充分でないだけのことである、と。道元さまは以上のようにお答えになっておられますが、道元さま自身も佛教の先進国である印度や中国に対して、自分の国の文化とか、国民の素質について劣等感を抱いておられたのではないでしょうか。しかし道元さまは「すべての人間は『般若の正種』を豊かに具えている」と、信じてさらさら疑いをお持ちにならなかったが、この『般若の正種』をこの身に受けて、働かせることができていない…ということを、かつての自分の上に重ね合わせて指摘されたのではないでしょうか。以上は、道元さまが修行者の質問を自らが設定し、これに対して自らが答えるという、いわゆる自問自答という方法をもって只管打坐の法門を力強く説いてこられたのでした。これについて次のように反省しておられます。
 (四十一)「先の問答往来し、賓主相交すること乱りがわし(患わし)。いくばくか華なき空に華をなさしむる」
 わしは先のように、自分が修行者になって問うたり、また自分が主人公となって答えたりしてきたが、あまりにも「賓主相交すること乱りがわし」で、雑然としてわずらわしいことであったように思う。それは恰も「華なき空に華をなさしむる」(眼を患っている人が、空中にありもしない華を見せしむる)ようなものであった。しかしこの道元も今までどれほど空中に華を咲かせてきたことか…と、回顧しておられます。もちろん道元さまは、自分がこれまで説いて来られたことが「空中の華」のように、捉えようもない無駄ごとであったといわれるのではありませぬ。却って、自分が説いて来た言葉に捉われることを恐れて、ただそれは「空中の華」であると注意されたのではないでしょうか。
 ――円窓(円相)に 向う坐禅や 虫しぐれ――
(H11.9月 平林一彦様よりの寄稿)









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