寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十三)―
 前号に続いて道元さまは、在家修行の者が世俗の仕事に追い回されて、出家者の様な修行が出来ないことを嘆いていることについて、次のように申されています。
 (三十五)「世務は佛法を障うと思える者は、ただ世中に佛法なしとのみ知りて、佛中に世法なきことを、未だ知らざるなり」
 在家修行というものは、世俗の生き馬の目を抜くような現代社会の真っ只中にあって、その寸暇を惜しんで修行しなくてはならぬ。仕事が忙しくて坐禅する時間などない…などと泣き言を言う者は、はじめから志が弱かったからである。志さえあれば寝る時間を三十分位は割ける筈である。そういう泣き言を言う者に限ってグルメじゃ、ダンスじゃと自分で忙しいことを作っているのである。多忙な仕事の合間の坐禅が本当に身に付けば、やがて仕事をしているそのまんまが佛道の修行をしていることが分かるだろう。世俗の仕事が佛道修行の障りになると思っている者は、世間の中に佛法はないものと自分が勝手に決めてしもうて、佛法そのものが、世俗の中で仕事をしているそのことであることを知らないからである…と、戒めておられます。またある修行者が「今頃のような穢れた末世の時代でも、おっしゃるとおり坐禅修行すれば私のような者でも悟れるでしょうか?」と問いました。これに対し道元さまは次のように説かれています。
 (三十六)「大乗佛教には、生・像・末法を分くることなし。修すればみな得道す」
 「正法」というのは、お釈迦さまがお亡くなりになった後の五百年間で、佛教が正しく伝わっていた時代のことです。「佛法」とは、次の千年間のことで、佛の教えが形骸化して、ただ形だけのものになった時代をいいます。最後の「末世」とは、釈尊の教えが地に落ちて見向きもしない…言い換えれば、佛教者でありながら、自分の生活だけを大切にして、衆生済度という大乗佛教の根本を忘れ果てた世代を言い表したものでしょう。こうした考え方が、道元さまの、あるいは法然、親鸞などの時代から予言されていたのではないでしょうか。こうした修行者の問いに対して道元さまは「釈尊の説法や、その弟子たちが書き残した教えを根拠として、そういうことを説く佛教学者もあるが、大乗佛教には正法だの像法だの末法だのというような区別はない。大乗佛教は、生まれた時からこの身の上に備わっている無我の法を、日常生活の中で実地に活用する方法を教えるのである。これが悟りか悟りでないかは、理屈抜きの坐禅をすれば自然に分かることである。文字言句の理屈道理の黒豆を拾い集めたような教えを説く指導者なら、正法だの末法だのと説くかもしれんが、大乗の教えでは『修すればみな得道す』で、坐禅することそのまんまが悟りなのである」と、あくまでも修証一如(坐禅即悟)の禅を主張されるのです。またある修行者が「師匠は、誰ひとりとしてこの身に背負わぬものはないものがある。それは『即心是佛』である、と言われましたが、それなら坐禅じゃ読経じゃ、やれ説法じゃと苦労して修行することもないのではありませぬか」と問うのです。これに対して道元さまは次のように答えられるのです。
 (三十七)「知るべし、佛法はまさに自他の見をやめて学するなり」
 道元さまは「知るべし」(ここの処は大切なことだからようく聞きなさい)と、声をはげまして、「佛法というものは、自分がそのまんま佛であると知ることが悟りというものではない。もしそうなら、お釈迦さまをはじめ歴代祖師方は、人を導くのに苦労をされなかった筈である。ここの処は『自他の見』(自分と他の者というような見方)をやめて、この身全体を投げ出して坐禅に精進しておれば、必ず『即心是佛』の真意がハッキリと分かる時節が訪れるであろう」…と。続いて道元さまは、則公監院という人の話を引用して次のように説いておられます。
 (三十八)「明らかに知りぬ、自己即佛の領解もて、佛法を知れりというにはあらずということを」
 則公は、法眼という禅師について三年間も禅の修行をしていたが、一度も法眼禅師に佛法について質問したことはなかった。そこで法眼が「お前はどうしてこのわしに佛法を尋ねないのか」と問うと、則公は「私はここに来る前にすでに悟りましたので、尋ねることもありません」と答えました。法眼は則公が本当に悟っているのかどうか調べるため「どう悟ったか言うてみよ」と問いただしたのです。この則公は青峰という禅師に参じていたとき「如何なるか是佛」(佛とはどんな人ですか)と尋ねました。すると青峰禅師は「丙丁童子来火求」と答えています。このことを持ち出して、則公は得意気にみずからの絵解きを始めました。「丙丁とは火の神様のことです。来火求とは火を求めているということ…。したがって青峰さまは、お前自身が佛ではないか、佛が佛を求めることはあるまい…とお示し下さったものだと考えて、それで安心の境地に達しました」と答えたのです。これを聞いていた法眼は「お前はやはり『領解』(頭の中の考え)をもって、この身が佛だと考えている…。それは偽の悟りというものだ!そんなに苦労もせず佛法が分かるものなら、誰も修行などするものか!」と叱りつけています。その後の則公は、暇さえあれば坐禅に打ち込み、遂に「この身即ち佛なり」と言い切れる境地を得たということです。
 ――佛とは 如何なるものぞと 問われなば ほっとけほっとけと 腹をなでなむ――
 (H11.8月 平林一彦様よりの寄稿)









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