寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十二)―
 道元さまは、先号の後段で述べておられたように、佛法は常に即今只今、此処に斯く在らしめられている自己を問題にしているのであるから、現在の生が「生死即涅槃」(迷いのまんまが悟り)であると充実しておれば、死後のことなどを問題にすることはない…と申されていました。また修証義の冒頭では「生を明らむるは佛家一大事の因縁なり」と、佛教人の最も重要な問題を投げ出され、この生死の問題を解決することが根本から救われる道である…と救いの手を差し伸べておられます。こうした生死の問題を解決する方法を次のように指示されています。
 (三十二)「生死は除くべき法ぞと思えるは、佛法を厭う罪となる。慎まざらんや」
 私達人間という動物は、どうしても生を喜び死を嫌うようになっていて、人生という言葉は、生死という六道輪廻の代名詞のように思っています。ところが道元さまは、生死という迷いの人生を忌み嫌うて、何とかして除こうとか離れようとするのは、佛法を信じる者にとっては大罪人となるから注意しなさい、と言われるのです。逆に言えば、この生死という迷界を離れての佛法というものはない、ということになります。そこで道元さまは「生死」について、「もし人々が生死のほかに佛を求めようするならば、南に行こうとしているのに北に向けて車を走らせているようなもので、方向が違う。こうなるとますます生死輪廻の迷いの世界に陥って、一生出て来ることはできまい。ここのところは、ただ生死輪廻のこの身このまんまが涅槃(悟りの世界)であると決定すれば、生死を忌み嫌う必要もないことを知るほかはない。このとき初めて生死輪廻の迷界を離れることが出来る」と言うておられます。要するに、いま・ここで・こうしている・自分というものが、そのまんま「佛」として生きることでありましょう。言い換えれば、即今只今、その時その時の自分の境遇に落ち着き、充実した生活を送るようにしなさい…ということでもありましょう。
 (三十三)「佛道を会すること男女貴賤を択ぶべからず」
 ある人が道元さまに「坐禅という修行は、出家しなくても在家の男女でもできるのでしょうか?」と尋ねました。それに対して道元さまは「佛道を修行することに男女の別とか、身分が高いとか低いとか、貴いとか賤しいというような差別はない」と答えておられます。今の時代にこんな問いをする人もないでしょうが、当時は士農工商などという身分制度がまかり通った時代ですから、無理からぬ問いであったかも知れません。それにしても在家の禅会に参加して、時々残念に思うことがあります。それはたまたまその禅会に社会的に地位の高い人が参加したりしますと、さあどうぞどうぞと上座に招いて尊重する様子を見ることがあることです。禅の道場では、一日でも早く入門した人が先輩として尊敬される習いはありますが、社会的な地位は一切問わない決まりがあるのです。また、修行には男女の差別はないのであるからといって、変な男勝りの行動をとる女傑(?)もどうかと思います。そうかといって「私は女性だから」などと考えていては本当の修行にはなりません。私たちが修行していることは、女は女として、男は男として「あるべきよう」に生きる道を習うことでもあることを忘れてはならないと思うのです。またある人が道元さまに尋ねます。「出家の人は世俗の関係を離れていますから、修行するのに障害となるものはありませんが、在家の者は仕事に追い回されている身です。どうしたら世俗の営みを離れた修行をすることができるでしょうか…。どうしたら佛道にかなうことができましょうか…」と。この問いに対して道元さまは次のように答えられるのです。
 (三十四)「ただこれ志のありなしによるべし。身の在家、出家にはかかわらじ」
 佛道を習うということは、すべての人々救うという佛祖方の広大な慈悲によるものであるから、在家だとか出家だとかいうような区別はない。問題とすることはその人が本当に心の底から佛道を会得したい!という志があるかないに依るのである、とここでは言うておられますが、後になるとこうした在家佛教の説き方を自ら否定されて、本当の佛法は出家しなければ完成されない…という出家至上主義に変わっておられます。ここではまず「在家佛教」的な説き方をしておられる本段の文字どおり、素直に頂いておきましょう。
 ――この身をば このまま行けば 強梅雨の 傘を叩ける 音のみとなる――
 (H11.7月 平林一彦様よりの寄稿)
 








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