寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その十)―
 (二十五)「すでに証を離れる修あり、我ら幸いに一分の妙修を単伝せる、初心の弁道すなわち一分の本証を無為の地に得るなり」
 先号では、私たちはみんな釈尊の血脈を受けた佛子としてこの世に生を享けていたのだ!ということをハッキリ自覚しました。勿論佛の子ですからしっかりとした悟りを此の身に秘めているのですが、長い間、五欲煩悩の娑婆で遊び惚けているうちに、すっかり自分が佛の子であるということも、悟りの当体としての此の身であることも忘れ果てて、いたずらに落ち着きのない生活をしていたのです。しかし道元さまから「お前さんたちはオギャア!と産声をあげて此の世に出てきたときから、すでに佛の子としての『悟り』の働きをしているのだよ。だから今そこで坐禅修行をしているそのまんまが悟りの姿であるから、修行も悟りも別のものではなく、一つなのだよ」と教えられたのでした。そう言われて私たち修行者は、何も求める心を必要としない安楽の法門が坐禅であったのか…と、改めて確認するのです。このように「すでに証を離れぬ修あり、我ら幸いに一分の妙修を単伝」している…。即ち、悟りの当体としての此の身から、自然に運び出す働きを完全に備えている私たちであるから、初めて坐禅を経験なさる方であっても「一分の本証を無為の地に得るなり」とあるように、坐禅している時は坐禅しているそのまんまが、本来、佛と何ら異なることのない悟りとして現れているのです。この悟りとしての働きは坐禅のみには限りませぬ。道元さまのお言葉にうなずける人は、日常の立居振舞が佛としての営みでないものはなく「無為の地に得るなり」で、自分では気が付いていなくても、チャンと悟りというものをこの身につけて働いているのです。こんなことを言いますと「私はそんなものは得た覚えはない…」という人があるかも知れませんが、道元さまが言われる「一分の妙修」ということは、特別なことではないのです。例えば、自分が見よう聞こう味わおうとする心の図らいを用いなくとも、目では見、耳では聞き、舌では味わい、身体では寒暖などを感じている。つまり、その時その場の緑に応じて働く機能を備えていて、自分の周囲の環境にまかせて、そのように働いておれば道元さまの言われる「一分の妙修」(不可思議な無我なる働き)が、知らぬうちに自分の上に行われているのです。この境界を得るために私たちは、禅堂の一点にこの身全体を投げ出して只管に坐禅をしているのです。
 (二十六)「知るべし、修を離れぬ証を染汚(ぜんな)せざらしめんがために、佛祖しきりに修行の寛(ゆる)くすべからざるを教う」
 繰り返すようですが、私たちは本来佛としての働きを日常のものとして行っています。そしてその働きは、この身の内面的な悟りが外に現れた様子ですから、修行(働き)を離れての証(悟)ではなく、修証は一つであるということがハッキリしました。そこで道元さまは「お前たちの日常の働きは、本来佛の悟りの現れであるから、それを汚さぬように、修行をゆるめてはならぬ!」と厳しく注文されるのです。そう言われてみれば、釈尊や達磨大師や万々出世の祖師方は「娑婆往来八千遍」と言われる修行を今もって我々と共に続けておられるといわれています。これは、今こうして坐禅をして私達の上に、あるいは朝から晩までの立居振舞の上に、祖師方と顔を付き合せて行動を共にしているということですが、これも衆生本来佛としての働きが悟りの現れであるから、合点できます。
 (二十七)「妙修を放下すれば本証手の中に充てり。本証を出身すれば妙修通身に行わる」
 ここにまた出てきましたが「妙修」というのは、本来佛としてのこの身が「妙」なる働きをもっているということでした。また「本証」というのは、生まれた時からこの身に備え持っている悟りから自然に生まれ出てくる働きのことでした。ですから、さっきもありましたように「修を離れぬ証」としての私たちの日常生活のありようですから「証」と「修」を言葉の上では区別できますが、切り離すことはできないものなのです。そこで道元さまは「妙修を放下すれば本証手の中に充てり。本証を出身すれば、妙修通身に行わる。」即ち、この「妙」なる「修行」(働き)という考えを手放したところに「本証」(本来具有の悟り)が、手の中に充ち充ちてくる。そしてこの「本証」というこの身から一歩抜け出したら、今度は「妙修」が自分では気付かないところで、全身で行われているのである…と言われるのです。なぜそうなるかといえば「妙修」といわれる働きの裏では、必ず「本証」といわれる悟りの働きがあり、また「本証」の裏にはちゃんと「妙修」が有るからです。なかなか分かりにくい言い方のようですが、簡単に言うと、自分中心の考え方を離れて、いま、やるべきことを、心を用いず肩に力を入れずやっている…。いわゆる「威儀即佛法。作法是佛法」に徹底することによって、そこに「本来佛」としての悟りが実地に現れるということです。ここで誰かが道元さまに問うたのでしょう…「ではお尋ねしますが、代々の祖師方はこの法を会得しておられたのでしょうか?」それに対して道元さまは簡単に次のように答えておられます。
 (ニ十八)「会えば通じてん。」
 分かっておられたら伝えておられるだろう。分かっていないということは得ていないということ。そうしてみると、釈尊も達磨大師もみんな自分が会得していることは知らずして、佛としての日常生活を送っておられていたのであろう…と、道元さまは言うておられるように解しています。
 ―― 啼く鳥の声を聞き分く そのままに 本来佛の妙修なりけり――
 (H11.5月 平林一彦様よりの寄稿)








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