寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その九)―
 (二十二)「かるが故に、修行の用心を授くるにも、修のほかに証を待つ思いなかれと教う。直指の本証なるが故なり」
 先号では、たとい初心の者でも坐禅しているままの姿が悟りの端的であり、その悟りの働きとして佛も悟りも、修行もない…、したがって自分の心のはからいを止めて、只だ坐ればよいのである、ということでした。この段ではそれを受けて「だから、私は修行上の心構えとして、自分の理想の世界を求めて坐禅してはいけない」と、常に教えている。なぜかといえば「直指の本証」であるからだ、と言われています。「直指の本証」とは、いま坐禅している私たちを直接指さして「それ!そのまんまが本来佛としての悟りの様子である」ということです。つまり、初めて坐禅なさる方であっても、その正身端坐そのままが悟りの様子ですから、あなたがいくら「私は悟ってはおらん!」と言われてもダメ…。それはあなたが「本来佛」であることに気が付かないだけ…。この自分では気が付いていないが、悟り済みの自分、つまり「直指の本証」であると言われるのですが、でもこの悟りも「未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」とも言うておられますように、いくら本来悟っている自分であるといっても、改めて佛道を修行して、何らかの縁によって悟りの目を開かなければ、本来佛としての悟りの働きは出てこないといわれています。では悟りの働きというものはどんなものかといえば「威儀即佛法、作法是れ宗旨」であると示しておられます。すなはち「規則正しい生活がそのまま佛法(悟りの生活)」であるということです。坐禅の専門道場でしたら一日中の起居動作の佛法としての「清規」(規律)を定められていて、そのとおりに従えばよろしいのですが、私たち在家の修行者の場合、自分の生活に合った一日のスケジュールをたてて、それに自分を律してゆかなければならないので大変な仕事です。しかし折角、佛道に生きようと志を起したのですから「本来佛」としての悟りの日常を送りたいものです。そのためには、五分でも十分でも一日一坐くらいはこなしてゆく…あるいは、坐禅会には必ず参加したいものです。
 (二十三)「すでに修の証なれば、証に際なく、証の修なれば、修に始めなし」
 釈尊がお生まれになったとき、七歩あるかれて「天上天下唯我独尊」と叫ばれたといいます。その真偽は別にして、私たちでも母親の胎内からこの世に生まれた時「オギャア!」と第一声をあげます。それを禅者が聞けば「天上天下唯我独尊」と受け取ります。この「オギャア!」の一声が修行の第一歩で、そのまんまが悟りの当体。この悟りの当体から自然に出てきた「オギャア!」が修行であったわけです。このように既に「修の証」であり「証の修」であるから、いま始まったとか、これで終わったという沙汰はなく、私たちの立居振舞いの一つ一つが本来佛としての、永遠なる「修」であり「証」であるということになります。こうした「修証」というものが、今の私たちの坐禅の上には勿論のこと、日常の上に実現されていると思うとき言葉では表現できないような、限りない幸せに包まれるのです。このとき、人間に生まれてきてよかった…と、思わず合掌するのです。道元さまは更に言葉をついで、次のように言われるのです。
 (二十四)「ここをもて釈迦如来、迦葉尊者、ともに証上の修に受用せられ、達磨大師、大鑑高祖、おなじく証上の修に引転(いんでん)せらる。佛法住持のあと、みなかくのごとし」
 前段にあったように、私たちの一挙手一投足が悟りの上の働きであり、その働き自体が本来佛から自ずから出てくる悟りであると、ハッキリ自覚できましたら、これを他の人にも知らせてあげたい…と、ある意味の救済者となって世に出るのもあと一歩です。これと同じく、釈尊もその弟子と迦葉尊者も、達磨大師も六祖慧能禅師も「証上の証」(本来佛の悟りの上に行われる法)を、その身に「受用」され、大乗佛教の真髄でもある衆生済度を、いまもって泥まみれになって私たちのために働いていて下さることが、みなさまにはお分かりでしょうか。ここに「佛法住持」とありますのは、お寺の住職ということではありません。易しく言えば「本来佛」としての自覚がハッキリ身にしみ込んだ人が、佛のみ教えを永遠ならしめんと、身を投げ出して迷える私たちを救済している様子です。
 死に抗することが無駄と分かれば、死と競争して修行し、信念という火に燃え尽きたい(H11.4月 平林一彦様よりの寄稿)
 







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