寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その八)―
 (十九)「まさに知るべし、これは佛法の全道なり。並べて言うべきものなし。」
 前号でも申しましたように、道元禅師は「只管打坐」が釈尊正伝の佛法である!と、ご自身の体験から力強く主張されています。なぜこの「只管打坐」だけが正伝の佛法かといえば…「まさに知るべし」(ここの処はハッキリ分かってもらいたい)と前置きをされていますが、このお言葉は恐らく修行者から「なぜ只管打座が正伝の佛法であると申されるのかお聞かせ願いたい」というような質問に対して答えられたものと推察します。これに対して道元禅師は次のように説かれるのです。私が言う「正伝の佛法」というものを「禅宗」という、いわゆる他宗といわれるものと区別した考え方で聞くから、こうした疑問が起こるのである。もともと禅宗という言葉は無かったでしょう。達磨大師がインドから中国に来られて、正しい佛法を伝えるに足る人物を待ちながら少林寺で九年間も壁に向かって坐っておられた。その姿を見た当時の人々は、この人はおそらく、印度の深山幽谷で食うや飲まずで坐禅しているという「婆羅門(バラモン)」であろう。このように只だ黙って坐っているだけでは何の益にもならぬ…邪教である!と思っていた。その後の二祖慧可大師をはじめ代々の祖師、達磨大師と同じように専ら壁に向かって坐っておられたので、その中味を知らない人々は「坐禅宗」と呼んでいた。そのうちに「坐」の字が抜けて「禅宗」となった。ところが達磨大師がお坐りになっているお姿の上には、坐禅のザの字も、禅宗のゼの字も付けようもない。只だ、生身端座の様子がそこにあるだけであります。道元禅師が主張される「正伝の佛法」とはまさにこれであり「只管打坐」である。そのまんまが「これは佛法の全道なり」とあるように、釈尊が説いてこられた真理であり、この道を修行していけば必ず佛果(佛の悟りの境界)に到ることの出来る道である…。だから「並べて言うべきものなし」で、この「只管打坐」に精進している修行僧は、臨済宗がどうの、曹洞宗がどうのと比較してくだらない論議をする暇があれば「只管に坐れ!」と申されているように解します。
 (二十)「それ修証は一つにあらずと思える。すなはち外道の見なり。佛法にはこれ一等なり」
 一般の人は坐禅といえば、修行して悟りを開くための手段であるとして「修行と証悟は別々のものだと言う」ているが、それは正伝の佛法の中味を知らず、佛法を信じない人の見方である「只管打坐」という正伝の佛法は「修行」しているまんまが「証悟」であり、「証悟」の上の「修行」であるから「修証」の二つに分けられないものである…といわれるのです。このお言葉は、私のような在家修行者にとってはまことに力強い言葉でして、一日の出発としての早朝を静寂な一室の空間に此の身を置くだけで釈尊と共にある。この身の上に今、斬く、此処に佛法が行われている。だからもう自分の考えは一切不要、此の身全体をあなたさまにお任せして、今日を生かされていることを思うとき、限りない幸せが身を覆うのです。この時私は、これまで尤も頼りにしていた自分というものが、その場の様子の中に溶けてしまって、自分が消えてしまっているような感覚に陥るのです。こんな話をしますと、経験されていない人は信用されないかもしれませんが、まあ一度、自分の考えというものから離れて坐禅してみて下さい。そのうちにあなたは、私の言っていることを経験なさる時節が必ずある筈です。言葉を続けて、道元さまは次のように示されるのです。
 (二十一)「いまも証上の修なるが故に、初心の弁道すなわち本証の全体なり」
 (二十)のところでも言われているように、佛法というものは、修行を手段として悟るものではなく「証上の修」とあるように、悟りが主体となって働く修行なのです。だから「初心の弁道すなわち本証の全体なり」で、初めて坐禅をする人であっても、今、そこで坐っているそのまんまが本来悟りきった全体であり、その悟りの全体の働きが坐禅修行である。この全体を離れて佛も悟りも修行もないのです。したがって、悟ろうとか、理想を求めるなどの自我意識で半ば強情な努力による修行をするのではなく、道元さまの言われるように「本証全体」(衆生本来佛)の当体から自然に出てくる働きですから、これまで、これが自分であると思っていたことの全身をそこに投げ出して坐れば良いのです。この時、初心の間はいろいろな疑問が起きますが、包み隠さずそこの和尚さんや指導に当たられる人にお尋ねになりますと、自分の経験の上から親切に教えてくれます。これは坐禅修行の上では特に大切なことで、今持っている疑問を誰にも尋ねずにいると、時間経過とともに自分の考えの中で解決したと錯覚するものです。それが正しい解決なら良いのですが、誤った解決でしたらとんでもない方向に行くことになりますから、特に念を押して申し上げておきます。
 ― 禅苑に消えゆく僧や月おぼろ ―
 (H11.3月 平林一彦様よりの寄稿)








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