寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その七)―
 (十六)「我らはもとより無上の菩提の欠けたるにあらず。とこしなえに受用すといえども、承当することを得ざるが故に、みだりに知見を起すことをならいとし、これを物と思うによりて、大道をいたずらに嗟過す」
 「無上の菩提」とは「この上もない悟り」という意味です。白隠禅師は「衆生本来佛なり」と言うておられますが、私たち人間は誰でも生まれたときから、この悟りを自分自身の上に何一つとして欠けることなく持ち合わせていた…。そしてこの悟りを「とこしなえに」、今もこれからも常にこの身に受けて働かせながら生活してゆくのです。けれども私たちは「みだりに知見を起す」で、ありもしないことを自分勝手に頭の中で造り上げ、「これを物と思うによりて…」とありますように、本物だと思い込んでどこまでも追い続けようとする気配があります。そして、頭の中に描いた架空の物であるから手に入るわけがないのに、いつまでもそれに執着している…。だから、折角「無上の菩提」(最上の悟り)をこの身の上に受け、日常生活の足元でピチピチと働かせていながら「大道いたずらに嗟過す」で、せっかくのひろびろとした大道とすれ違うことになるようです。では最上の悟りという「無上の菩提」というものは、どんなものだというのでしょうか。ここの処を臨済禅師は「切ったら血の出るお前さんの肉体に、釈尊や達磨と寸分違わない真実の人が居るぞ!この人は朝から晩まで見たり聞いたり、嗅いだり食べたり物を握ったり歩き回ったりして、活き活きと働いているぞ!」と、ヒントを与えています。このように、最上の悟りとしての働きが常に自分の上にあるのに、むやみに頭の中でものを考え、自分勝手に振る舞うくせが付いている私たちには、体験として受け取ることができないのです。ここの処はどうしても「我」という思いの起きる前の自分、言い換えれば「本来無我なる自己」を体験として自覚するほかはないでしょう。この「本来無我なる自己」が分かれば、いつでもどこでも、何をしているときも佛道のどまん中に生かされていることに気が付く筈です。ところが私たちは、自分を離れて向こうばかりに求めるものですから「無我なる自己」に気が付かないようです。そこで道元禅師は次のように教示されるのです。
 (十七)「この知見によりて空華まちまちなり」
 「佛法は無我」である!この無我なる法を自分勝手な「知見」(考え方)をもって扱おうとするから手に入らないのだ。問題は向こうにあるのではなく、今そうして何気なくやっている一挙手一投足のお前さんの足元にあるのだ!それにもかかわらず、いたずらに市販の仏教解説書を買い漁り、まちまちに説いている文字を拾うのだから「空華まちまちなり」。眼を患った人が見る火花のように、真の佛法であるところの「無我なる自己」のあり場が分からないのである。もし真剣に佛道を修行するならば、自分の外に向かって求めてはならない!文字言句から得た知識はすべて夢幻空華と知るべし!と、くり返し教示されているのです。
 (十八)「佛家には、教の殊劣を対論することなく、法の浅深を択ばず。ただし修行の真偽をしるべし」
 多くの宗教の中には宗派が異なると、とかく自分が所属する宗派が正宗であるとして、他の宗派を排斥する議論を聞くことがあります。道元禅師もまた、自分が伝える「只管打座」こそ「正伝の佛法」であると主張されているように思います。日本には昔から法華宗、真言宗あるいは華厳宗というような立派な教えが伝わっています。にもかかわらず、なぜ道元禅師は自分が伝えている「只管打座」だけが「正伝の佛法」であると主張されているのでしょうか。こうした多くの疑問に答えられたのが、この段の言葉であるといえましょう。すなわち「わが佛教家には多くの宗派があるが、その教えの優劣を論じて、どちらの法が深くて、どちらが浅いなどと問題にすることはない。ただ問題としなくてはならないのは、その人の修行が本物か偽物かということだけである」と言われていますが、修行者にとっては肝に銘ずべきお言葉であります。そう言われてみれば道元禅師は、自分が伝える「只管打座」が「正伝の佛法」であるとは言うておられますが、「禅宗」というような宗派を立てることばを使っておられません。禅堂では今も、在家の修行者の皆さんが坐禅をしておられますが、決して同じ宗教を持つ人の集まりということではなく、様々の宗教信者がただただ「純一無雑」に坐禅する…。そこに宗教宗派を越えた「道元宗」があると信じるのです。
 ― 去年今年 尻に敷きたる 坐禅かな ―
 (H11.2月 平林一彦様よりの寄稿)








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