寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その六)―
 (十四)「佛法を伝授することは、必ず証契(しょうかい)の人を宗師とすべし。文字を教うる学者をもてその導師とするに足らず」
 昔、釈尊が霊山で説法されたとき、高台に上がられた釈尊に聴衆の一人が花をプレゼントしました。釈尊は何と思われてか、その花を聴衆の面前にスーと差し出されたかと思う間もなく、ひとことも言われず高台から下りられたのです。一方聴衆は、さぞかし有り難い説法を聞かされることだろうと期待していたのが、花一本を差し出されたまま下降されたのですから、狐にだまされたように口あんぐり。その聴衆の中に釈尊の高弟でもある迦葉尊者がおりまして、釈尊が花を拈しられ下降されるまでの一挙手一投足をジッと見ていましたが、睡る子が夢でも見ているように、ニッコリと微笑したのです。この迦葉の様子を見られた釈尊は、この人物こそ長い間求めていた道者であると見抜かれ「吾に正法眼蔵涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り、不立文字、教外別伝、摩訶迦葉に付嘱す」と大衆の前に宣言されました。ここにおいて釈尊の法を嗣ぐ二祖摩訶迦葉の誕生となり、更に印度から中国に渡ってこられた達磨大師にと伝えられ、今こうして私たちの手元に、釈尊直伝の佛法を頂いているのです。でも私のような無智な者には釈尊が花を差し示された真意がハッキリ分からないのです。だから間違った教えを説く指導者があっても、その正邪が判断できないから、ついついその能弁にはまり込んで、ますます迷いの世界に沈んでゆくことにもなりかねません。このような無智な私を心配されるがあまりに道元禅師は「佛法を伝授することは、必ず証契の人を宗師とすべし…」と注意を促されるのです。つまり、釈尊の正しい教えを伝える指導者たる者は、例えば「釈尊が花を拈じられた」真意を体得したような人でないと指導者とはいえない。「文字を教うる学者をもてその導師とするには足らず」…(経典などの文字を取り上げて、自分は体得していないのにその中で得た知識を振りまくような者を指導者とすべきではない)と、はっきりと指摘されるのです。しかし私たち在家修行者は、仏教研究を専一にしておられる先生方の書かれた仏教書は分かり易く説かれているから、ついついその本の良し悪しは考えず鵜呑みにしてしまう傾向があります。こういうことがあっては、折角佛道修行の志を立てても無駄骨になってしますので、次のように警告されるのです。(十五)「いたずらに邪師に惑わされてみだりに正解をおおい、むなしく自狂に酔うて久しく迷郷に沈まん」
 指導者には正師と邪師がある…つまり修行に修行を積み重ねて体得した悟りという裏うちのある指導者と、佛教関係の本の中の文字だけを取り上げて、頭の中で理解したにすぎない指導者がある…と言われる。もし後者のような指導者につきますと、私のような無智な者は「いたずらに邪師に惑わされて、みだりに正解をおおい…」とありますように、その巧みな弁舌に惑わされて「無我なる佛法」という正法から離れてゆくことになります。そればかりか「むなしく自狂に酔うて、久しく迷郷に沈まん」で、佛法は「無我」であるべきに、自分勝手な独りよがりな佛法を頭の中に想像して、酔っぱらいがあれぬ方向に迷い歩くように、遂に本来「無我」なる家宅に帰り着くことがなく、一生を迷いから迷いの世界に輪廻することになるだろう…と言うておられるのです。では「無我」なる自分とはどんなものか?と問い詰められたとき、私は言葉を失ってしまいますが、苦し紛れにいうとすれば「自分のことは一切勘定に入れず、ただ目の前にある隣人のことのみを思うて生活している人のこと」だと確信しています。だからといって「ではお前さんはそのようにやっているというのか!」と詰問されたとしたなら、私は頭を掻きながら「私はそんな人になりたいという念願から、今日もこうして坐禅修行をしているのです」と答えざるを得ないのです。
 ― 人をのみ 渡し渡して己が身は ついに渡らぬ 渡し守かも (不明)―
 (H11.1月 平林一彦様よりの寄稿)



 




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