寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その五)―
 (十)「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども、未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」
 道元禅師は、あくまでも「いま」「こうしている」自分というものは「ほとけ」であるという立場から説いておられます。先号でも「身心脱落」という言葉がありましたが、あれも坐禅するということがそのまんま身心脱落(一切の束縛から離脱した当体)の様子である…。言い換えれば「坐禅即ち身心脱落」であるような「佛の坐禅」であるから『生きとし生けるものは、すべて佛である』というのが道元禅師の根本教理です。しかしそうではあるが「この法は、人々の分上に豊かにそなわれりといえども…」とありますように、「この法」という「佛」としての資格は十分に「豊かに」そなわっているのであるが、「未だ修せざるには現れず、証せざるには得ることなし」で、坐禅修行一つしないで腕をこまねいているだけでは、その人の上に佛は現れないし、当然のことではあるけれども、佛としての実践実証がない限り、いくら『佛々』というても何にもならない…と言われるのです。そこである人が道元禅師に問います。「読経や念仏は、それを勤めているうちに悟りの因縁となるには違いないが、禅師が言われるように、何もせず、黙りこくってただ坐っていては、悟りの手懸りとなるものはつかめますまい」と。この質問に対して道元禅師は次のように答えられるのです。
 (十一)「口声(くしょう)ひまなくせる、春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとし。ついにまた益なし」
 すなわち「念仏や読経などは修行上、大切な勤めの一つではあるけれども、それだけで救われると信じ、ただ『口声をひまなく春の田の蛙の昼夜に鳴くがごとく』しきりに口だけを動かして唱えごとをすることは、田んぼの中の蛙が夜も昼もガアガアと鳴くようなもので「ついにまた益なし」…、何の利益にもなるまい」と答えられるのです。これは浄土真宗の念仏や、日蓮宗の唱題を批判しているのではありませぬ。道元禅師は、佛祖正伝の佛法である坐禅を、ただ坐っているだけで何にもならんと思う…と言うた人に対して、坐禅をそしるということは大乗佛教をそしることになるのみならず、自分の修行の未熟さをさらすようなものだと教えられるのです。だから念仏も唱題も読経も、もちろん坐禅も、ともに佛道にとっては大切なものであり、大乗佛教としてそれぞれ深い宗旨があることは申すまでもありません。このように、自分の属するものだけが正しい佛教であると誤った考え方をしている者に対して「それぞれ宗風は違っていても、釈尊の教えは、ただ一つ佛の心を伝えておられるのであるから、正しい指導者に付かなければならない」と、次のように示されるのです。
 (十二)「ただまさに知るべし、七佛の妙法は、得道妙心の宗匠に契心証会(かいしんしょうえ)の学人相随うて正伝すれば、的旨あらわれて稟持(ひんじ)せらるるなり」
 修行者である私たちは『ただまさしく知るべし』で、はっきりと心に刻み込んでおかなければならないことは『七佛(最初の毘婆尸(びばし)佛から第七佛である釈尊までの過去佛)の妙法』を、血となし肉となした真の指導者について修行しなければならないことである。そして指導者と自分が「契心証会(心と心が一つとなり真実を実践)」することが出来得て、はじめて正しく法をこの身に受け、また正しい法を後世に伝えることができるのである。そのとき指導者はもちろん、弟子である自分の上に、まぎれなき正しい佛法が「稟持せらるるなり」で、日常生活において知らず知らずのうちに佛としての働きが現れるのである、と特に力を込めて教示されるのです。更に道元禅師は、これから佛道を修めようと志す者は、釈尊の心を我がものとした真の指導者を選ばなければ、本当の佛法を得ることはできない…と、次のように繰り返して示されるのです。
 (十三)「文字習字の法師の知り及ぶべきにあらず」
 真の佛法は、文字言句をはるかに越えているのであるから、学者さんが書いた本の中を、鳩が黒豆を拾うように探してみても「知り及ぶべきにあらず」もしこのような「文字習字」の指導者があるとしたならば、改めて文字や学問の中には真の佛法はないばかりか、遠ざかるばかりであるということを肝に銘じるべきである…と示されながら、釈尊正伝の佛法は「只管に坐禅して初めて得」られるものであるから、そういう人を選んで指導を仰ぎなさい!と、繰り返し繰り返し警告されるのです。
 ― 木の実降る 音に聞き入る 夜の坐禅 ―
 (H10.12月 平林一彦様よりの寄稿)
 


 




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