寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その四)―
 (七)「五家ことなれども、ただ一佛心印なり」
 ご存じのように禅宗と呼ばれているものに、曹洞宗、臨済宗、雲門宗、法眼宗、?仰宗という五つの宗派がありますが、もとはといえば釈尊が霊鷲山(りょうじゅせん)で、一本の蓮華を大衆の前に示されたことにはじまります。その時何のために蓮華を示されたのか誰一人として分からず、ただポカンとしていたのですが、迦葉尊者だけが釈尊の肚の中をよみとって、ニッコリと微笑したのです。この因縁によって迦葉尊者に世尊の法を授けられ、それから歴代の祖師方が一器の水を一器に移し替えるようにして、今こうして私たちに正しい法を伝えようとしているのですから「五家ことなれども、ただ一佛心印なり」とありますように、いくら宗派がわかれていようとも、またどんな説き方をしていようとも、ただ「佛心印」(佛心の確かなことを印形にたとえた語)一つを正しく伝えているのである…と、道元禅師は申されているのです。
 (八)「祖師西来ののち、直に葛藤の根源を切り、純一の佛ひろまれり。わが国もまた然あらんことを希うべし」
 道元禅師が、波多野義重の招きを受けて越前に大仏寺を開堂(1244年)され、のちに「永平寺」と改められていますが、これには次のような故事があります。古代中国の漢の時代に、当時の皇帝が佛法を求めるために印度に使者を送りました。ときに明帝の永平十年(67年)、迦葉摩騰(かしようまとう)と、竺法蘭(じくほうらん)の学者二人が、その求めに応じて中国にやってきました。そして印度の佛典(四十二章経)を中国語に訳したのですが、それが印度から中国に渡った始まりだと言われています。このように中国に初めて佛法が伝えられた年が永平十年であるところから、大仏寺を永平寺と改名されたのではないでしょうか。そして道元禅師は、自分が中国の如浄禅師の道場で学んだ「只管打坐」こそ、釈尊正伝の佛法であるという自負によって、日本の佛法の始まりは「永平寺」からであると信じて疑わなかったように、この文の上から窺えます。このように、永平十年に初めて佛教が中国から日本に入って以来、いろいろな説き方をした佛教書が出版されて、どの教えが正しい教えなのか紛らわしいものがあった。ところが「祖師西来の後、直に葛藤の根源を切り、純一の佛法広まれり」とありますように、達磨大師が印度から中国に来られてから、藤のつたが巻き付いたように分かりにくいところがあったものを、根源から断ち切ってすっきりとした坐禅という「純一の佛法」が中国に広まったのです。そこで道元禅師は「わが国もまた然あらんことを希うべし」(わが日本の国もかくありたいものである)と、道元禅師みずからが日本の国の達磨となって、釈尊正伝の佛法を広めたいと、念願されていたように思えるのです。道元禅師の言う正伝の佛法とは申すまでもなく「只管打坐」のことですが、中国の如浄禅師のもとで修行した体験から、次のように申されるのです。
 (九)「参見知識の初めより、さらに焼香、礼拝、念佛、修懺(しゅさん)、看経を用いず。ただし打坐して心身脱落することをえよ」
 すなわち禅を志す者が、初めて禅の指導者(善知識)にお目にかかったら、いきなり佛像を礼拝したり、焼香したり、念佛は勿論のこと、懺悔やお経を読ますようなことは一切しない。ただただ「坐禅」するのみである…。そのうちに必ずや「身心脱落」の時節がある、これがいわゆる「只管打坐」の主張するところであると…。「身心脱落」とは、身も心も一切の束縛から離脱して自由自在な真実の自分に帰ることです。したがって、道元禅師の主張される「只管打坐」は、「身心脱落」することを目的としての坐禅ではなく、坐禅しているそのまんまが「身心脱落」の姿であるということになります。しかし、ここで気を付けなくてはならないことはこの肉身の欲するまま、また心もこれに捉われているまま、言い換えれば煩悩妄想の出放しの、いわゆる凡夫のままの坐禅そのまんまが、「身心脱落」した佛の坐禅であるということではないということです。繰り返すようですが、道元禅師の言われる坐禅は、あくまでも「本来佛」としての「佛の坐禅」であり、断じて「凡夫の坐禅」ではない!ということを、実地に座布団の上にドン坐って、各人の責任において自覚して頂く以外に方法はありません。
 ― ななとせを踏み迷いきし闇の路 今ここに観る 十五夜の月 ―
 (H10.11月 平林一彦様よりの寄稿)
 


 




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