寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その三)―
 念願の坐禅道場を建てられた道元禅師は、いよいよ釈尊正伝の佛道修行のやり方を教えてやろうとなさるのです。
 (四)「自受用三昧、その標準なり。この三昧に遊化するに、端坐参禅を正門とせり。」
 まず「正伝の佛法」を身に付けるには「自受用三昧」がいなくてはならない。「自受用」とは「みずから」「受けて」「用いる」という意味で、自分に生まれたときから備わっている「佛」としての本性を、自分自身が受用するという「三昧」境があるが、この境地を「標準(目安)」とするのであると、明確に示されたのです。「三昧」とは、簡単に言えば「即今その場のことに成り切る」ことでして、誰でも持ち合わせていた力でもあります。ところが、物心がついた頃からの長い生活習慣の中で身に付いた我欲という塵が、あたかも拡がる雲に隠されてゆく名月のように、この「三昧力」を覆ってしまったのです。これでは「『本来佛』の正しい日常生活は『三昧に遊化』することである」といくら言われてもどうにもなりません。ここのところは、どうしても塵埃を洗い流し、元のままの「三昧力」を引き出さなくてはなりませぬ。そこで道元禅師は、三昧境に遊びたいと願う者は「端座参禅を正門」としなさい…と指示されるのです。「端座参禅」のことを「正身端座」ともいいますが、正しい作法によって参禅することです。これは禅寺に来られましたら丁寧に教えてくれますから、ここでは省略します。ここにおいて道元禅師の示される佛法は、この「端座参禅を正門」とするところから始まり、「只管打坐」が全国に弘まってゆくのです。また道元禅師は、「只管打坐」が佛道に入る正門であることを証明されるかのように、次のように言われるのです。
 (五)「大師釈尊、まさしく得道の妙術を正伝し、また三世の如来、ともに坐禅より得道せり。西天東地の諸祖、みな坐禅より得道せるなり」
 釈尊は、まさしく坐禅という妙術をもって佛法の極意に到達することのできる道すじを伝えられている。また、過去、現在、未来にわたる多くの如来さまをはじめ、印度や中国の祖師方はすべてこの坐禅によって佛道を極められたのである。だから、坐禅が唯一の佛道に入る正門であることを確信して、坐禅に精進しなさい…と、繰り返されるのです。
 (六)「いま教うる功夫弁道は、証上に万法をあらしめ、出路に一如を行ずるなり」
 道元禅師が、いま是非とも教えておきたいと思っている「功夫弁道(坐禅修行の方法)」は、衆生本来佛なり!と、悟り得た自己の上に、その本来佛を体現(身をもって実践)させることである。だから、日常生活のすべてのものごとが、本来佛として働きとして生きているような、そういう坐禅修行である。これは何も坐禅の上だけのことではありません。ご婦人が台所で料理をすることも、ご主人が会社で仕事をしていることも、老人が庭の草取りをすることも、みな本来佛としての悟りの当体から自然に出てくる働きであるといえましょう。次に「出路に一如を行ずるなり」とありますのは、坐禅をしているときの境地から、煩悩妄想が渦巻くこの人間社会に出ることを「出路」といいます。そして人間社会の悪に染まることなく、坐禅によって身に付けた悟りを日常生活の立居振舞いの中に働かせてゆくことを「一如を行ずる」といいます。こんなことを言いますと、大層むずかしく思われるかも知れませんが、ご存じのように坐禅修行には厳しい作法があります。この作法を行ずる一つ一つが、本来佛という悟りの働きなのですから「出路に一路を行ずる」ということは、この作法を日常の中で生かして働くことであるというてもよいと思います。このことを道元禅師は、は「威儀即佛法(正しい規律ある生活が、そのまんま佛法である)」とか「作法是れ宗旨(佛道の究極は作法の実践にある)」などと言うておられます。ここの処は、禅堂の片隅を襪す者の一人として、よくよく心せねばならぬことであると、自戒をくり返しておる次第です。
 ― 暑き夜を 凡佛一如の 坐禅組む ―
 (H10.10月 平林一彦様よりの寄稿)
 


 




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