寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その二)―
 天童山の如浄禅師の道場で、禅の修行を成し遂げられた道元禅師は「自分が得たこの法(真理)を、何とかして日本のすべての人に会得させてやりたい」という強い念願に、居ても立ってもおられなかったようで、その心中を次のように独白しておられます。
 (二)「大宋紹定の始め、本郷に帰りしすなわち、弘法衆生を思いとせり。なお重担を肩におけるがごとし。」
 宋の国の紹定の始め(1227年)の冬、如浄から付与された伝法の袈裟を持って、中国から肥後の河尻に帰ってこられた師は、それから「弘法救生」(法を弘め衆生を救わねばならぬ)という責任があたかも重い荷物を肩に担っているように、寝ても覚めても師の心にのしかかっていたようです。ところで、山に登るということは、人里に下りてくるためのものです。師は世の無常を感じて、十三の時仏門に身を投じられてからというものは、禅の頂上を目指して血のにじむような修行をなさったのです。そして縁あって中国に渡り、如浄禅師に参ずること三年にして、遂に釈尊正伝の佛教の真髄を見い出されたのでした。
 私のような凡人なら「自分の疑問は解決できたのだから、もうこれでよし。呑気に生きて行けばよいのだ…」という心境になるものですが、道元禅師のみならず歴代の祖師方は「自分が得た安楽の法は自分のものにすべきではなく、すべての人に伝えなければならぬ」という、やむにやまれぬ「弘法衆生」の思いがあったようです。師も同じ思いで日本に帰られた…。つまり禅の頂上から私たちの住む凡人の里に下りてこられたのです。そしてあらためてあたりを見廻された師は、私のように迷苦に喘いでいる凡人がうようよしている様子を目の当たりされるのです。そこで師は「一刻も早く、自分が体得した釈尊の正しい法を多くの人に弘め、人々の迷いを覚してやらねばならぬ」という焦燥感が「なお重担を肩に置けるがごとし」と言わしめたのではないでしょうか。こうした心の重圧に耐えながら、その時節が来るのを待っておられたのです。しかしこうしている今も、正しい禅の指導者を求めて全国行脚を続けている修行者の上に思いをかけられる道元禅師は、次のことを心配されるのです。
 (三)「なにによりてか般若の正種を長じ、得道の時を得ん」
 「般若」とは、誰でも持ち合わせている釈尊と同じ心(命)のことで、その種子を宿していることを「正種」といったのです。私たちが坐禅修行に精を出しているのも、この種子を何とかして育て上げて、あわよくばそれを結実させ、万分の一でも佛祖方のお手伝いをさせて頂きたいという、切なる念願にほかなりません。私たちは幸いに「只管打坐」という修行指針を、師の書き残されたものから知っているから、迷うことなく「只管打坐」に自分を投げ込めばよいのですが、当時の修行者にはそれがなかったのですから、全国を行脚して正しい指導者を探し求めなくてはならなかったのです。そうした修行者を憐れに思われた師は、如浄禅師に仕込まれた釈尊正伝の「只管打坐」という教義を「善勧坐禅儀」に示され、また「正法眼蔵」95巻も、その頃から書き進められていたのでしょう。ここにおいて、日本では初めての本格的な禅道場が建てられ、当時の人はもちろんのこと、今日の私たち修行者に「般若の正種を長じ、得道の時を得」る、ハッキリとした指針を示してくださったのです。では「釈尊正伝の佛法」とはどういうものというのでしょうか。次号からはその中身についてお示しになるのです。
 ― 只だ坐り 只だ立ち只だ往く ひねもすが そのままほとけの道と知りたり ―
 (H10.9月 平林一彦様よりの寄稿)


 




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