寄稿 「仮字正法眼蔵」


 ―「仮字(けじ)正法眼蔵」を読んで (その一)―
 本論に入るまでに、道元さまの生い立ちその他の周辺を窺ってみたいと思います。
 師は時の内大臣、久我通釈を父とし、関白松殿基房の三女、伊子を母としてこの世に生を享けられました。血縁には天皇を出したほどの貴族中の貴族の出身ですから、当然貴族としての教育を受けて育てられたようです。少年の頃のずば抜けた才能は、周囲の人も目を見張るものがあったと伝えられています。師は7才の時、慈母と死別されました。その霊前に立ちのぼる香煙をジッと見ているうちに、子供心ながらも世の無常を感じ、密かに家を抜け出して比叡山に上り出家されたというから、いかに非凡な子供であったかお分かりのことと思います。その頃の師には一つの大きな疑問がありました。それは「衆生本来佛」であると教本にはあるのに、なぜ改めて佛を求めなければならないのか?ということでした。師はこの疑問を尋ね回られたが、満足した答えが得られず行脚の旅に出られ、その途中に建仁寺の明全禅師に会い師事されることになるのです。時の17才の秋と伝えられています。
 その後、建仁寺で修行すること九年余、禅の源流を求めて明全に伴われ、23才のとき中国に渡っておられます。そこでも、青年道元さまの心を満足させるものがなく、諦めて帰国しようと思っていた頃、ある因縁で天童山の如浄さまに相見することとなるのです。(師25才の時)師は如浄さまを一見して「このお方にこそ久しく求めてきた正師である」と見抜き、如浄さまもまた「この外国青年こそ万人に一人とない非凡の道者である」と見抜いたのです。その瞬間、暗黙のうちに青年道元さまと如浄さまとの堅い絆の師弟関係が生まれたのです。それからというものは厳しい修行の毎日を送ることになるのですが、ある日のこと、師の隣に坐禅していた雲水が、コクリコクリと居眠りをはじめました。それを見た如浄さまが「坐禅は只管打坐でなければならんのに、只管に居眠りをしてなんとする!」と叱るや否や、ピシィッ!と警策を打ち下ろしたのです。その声を聞かれた師は、その場で今まで抱いていた疑問がスーと消え去って忽然として大悟されたのでした。
 こうして如浄禅師の法を嗣がれた師は、二年後の秋、27才の時日本に帰ってこられ、建仁寺でしばらく隠棲しておられました。そして帰朝一番に著述されたのが「普勧坐禅儀」でして「只管打坐」を修行の根本として布教活動に入られたのです。中国式の新しい「只管打坐」という佛道の修行方法は、またたく間に日本中に広まりましたが、当時の在来佛教僧徒のねたみに会い、迫害を加えられるはめとなりました。こうした苦難の中に書きまとめられたのが、この「仮字正法眼蔵」であります。このような苦難の連続と厳しい修行生活は、やがて道元さまの肉体を病魔が侵すこととなり、ついに1253年8月28日の夜、満53才という短い一生を閉じられたのです。道元さまは「正法眼蔵」のはじめに、自分が佛道を求めて修行してきた過去のことを思い出すかのように、次のように述べておられます。
 (1)「ついに大白峰(天童山景徳寺)の如浄禅師に参じて、一生参学の大事をここにおわりぬ」
 これは冒頭で触れておきましたように、7才の時発心して以来、方々の善知識を訪ねては教えを請われたが、納得するものがなく、遂に中国本場の禅を求めて渡航されたのです。そこで如浄禅師に参禅する縁を得て、「ここに一生参学の大事をおわりぬ」とありますように、人間の生涯をかけて学ぶべき生死の一大事を如浄禅師の一声によって明らめ得たといわれるのです。
 (H10.8月 平林一彦様よりの寄稿)


 




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