寄稿「白隠禅師」第14号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その十四)―
 ―『この時何をか求むべき、寂滅現前する故に、当処即ち蓮華国、この身即ち佛なり』
 ここまで、知ったかぶりのことをくどくどと申してきましたが、いよいよ結論の段となりました。この「坐禅和讃」を手にして、先ず冒頭から「衆生本来佛なり」と示されている一句に度肝を抜かれた私たち修行者は、このようなくだらん人間である自分のどこを指して本来佛と言われたのかと、大疑問を抱いて禅の諸先輩を訪ねては、その指導を仰ぎながら「衆生本来佛」の五文字に参じてきたのです。そして「直に自証を証すれば、自性即ち無性にて」の一句と、今こうして坐禅に鞭うっている肝とが解け合って一つになったとき、思わず膝を打って口を吐いて出てきた言葉が、この段の『この時何をか求むべき…この身即ち佛なり』であったわけです。ここまでくれば不遜な言い方ではありますが、お釈迦さまや、達磨大師と寸分違うことのない佛の出来上がりですから『此の時何をか求むべき』と言われているまでもなく、これ以上何を望み、何を求めようとするものがありましょうか。振り返ってみて下さい。「衆生本来佛なり」から、ここの「此の時何をか求むべき」と、確信を持って言い切れるまでの修行というものは、とても言葉では表現できないような苦労の連続であったのです。今になってみて、こうした素晴らしいみ教えの中にすっぽりと身を投げ入れている人はみんな「此の時何をか求むべき」という法悦の日暮らしをしておられることと確信しています。こうした法悦の人の日常生活は「寂滅現前する故に」とありますように、とらわれとなる欲求というものがありませんから、その人のやることなすこと一切の立居振舞いは「寂滅」であります。「寂滅」とは、執着となるもののない常に満ち足りた心の状態を言うのですが、ここで思い出すのは「施身聞(せしんもん)」という偈です。釈尊が前世で雪山童子として、雪山(ヒマラヤ)で修行していたとき、帝釈天が羅刹に姿を変えて現れ「諸行は無常なり、是れ生滅の法なり」と唱います。童子は「その二句は分かっているが、あとの二句は分からぬ。どうか教えて下さい」と頼みました。すると羅刹は腹を押さえながら「私はそれどころではありません。私は人間の肉と血を常食として生きていますが、この二三日は人間がこの雪山を訪れないので、腹がすいて唱える力がありません」と断りました。童子はためらう様子もなく「それはお困りでしょう。では私の身をあなたに供養しますから、その前にあとの二句を教えて下さい」と頼みます。そこで羅刹は声高々に唱うのです。「生滅、滅しおわって、寂滅をもって楽と為す」と。童子はその句を、そこら中の樹といわず石といわず書き付けておいて「では約束どおり、その肉体をあなたに差し上げますから腹の足しにして下さい」と、岩の上から身を躍らせました。すると羅刹は帝釈天の姿にもどり、童子を地上で受け止めて静かに岩の上に安置し「あなたこそ誠の菩薩です。無上の悟りを得られましたらどうかこの私をもお救いください」と言って天に帰って行ったとあります。普通この偈は「諸行無常、是正滅法、生滅滅巳、寂滅為楽」と読まれていますが、これは生も死も、貧富とか苦楽など一切の対立世界を抜け出て「此の時何をか求むべき」〔寂滅をもって楽と為す〕という安心立命の佛国土、つまり「蓮華国」が即今只今の自分の足もとにあることを示されたものと解しています。弘法大師の御歌に「阿字の子が、阿字のふる里立ち出でて、また立ちかえる阿字のふるさと」というのがありましたが、私たちはここに来るまで、本来佛であることを忘れてしまって、あれが欲しい、これは嫌じゃと、自分勝手なことばかりの生活をしていたように思います。幸いにこうしたありがたい佛法に逢う縁を得て「わしは本来佛であったのか…」と気付いた人は帰って行く「阿字」という佛国土…、何も求める必要もない大安楽の世界…。この世界こそまさに「衆生本来佛なり」と自信を持って言い切れる人のみが住むことを許される世界であると言えましょう。ところがここに到ってみますと、元の木阿弥…あたりを見回してみても相変わらず薄汚れた自分の家の奥座敷に坐っていることにお気付きのことでしょう。これが禅の奥の院とは思いもしなかったことで、骨折り損のくたぶれ儲けとはこのことでしょう。しかし、この境涯に到り得て初めてチンコロ丸出しの自由自在な生活ができるというもので、何をするにも不可の二文字はありません、だからこの薄汚れた座敷も、この人とっては黄金の御殿、例えビタ一文の金が無くても肚の中は億万長者…。こうなると行くも帰るも、歌うも舞うも、その時その場が蓮華国「此の身即ち佛なり」ということになります。たびたび申しますように禅修行というものは、あくまでも「今」「斬く」「此処に」「斬く在る」自分を問題にして、その究明に苦労しているわけで、これを解決した処に「此の身即ち佛なり」と自信を持って言える素晴らしい世界があるのです。今こうして「当所即ち蓮華国、此の身即ち佛なり」と合点できた上は、毎日の生活が釈迦や達磨と手を取り合って極楽浄土を散歩しているようなもの…。ここで初めて肚の底から「苦労の仕甲斐があったワイ!」と言えることでしょう。
 ―数を知るだけのつくしを 子が摘めり―
 (H10.5月 平林一彦様よりの寄稿)
 
 
 




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