寄稿「白隠禅師」第13号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その十三)―
 ―『三昧無碍の空ひろく、四智円明の月さえん』いよいよこの段から、禅の奥座敷ともいうべき「自性」を徹底「証」した人が、「衆生本来佛」としての日常生活を送る、その中味を詠い上げておられます。『三昧』とは、即今只今自分がおかれている立場を直視して、一かけらの雑念も交えず、そのことをそっくり受取って、自分が今やらなければならないことを、心を用いず、肩に力を入れず、しかも着実にやっている様子であると解しています。例えば、この全身を一枚の鏡としますと、この鏡の前に現れる物は寸分の間違いなく、ピタリとそのまんまを映し取ります。そしてそのものが去りますと鏡は澄み切った元の姿に戻りまして、写し取ったという跡形が残りませぬ。これと同じように禅でいう「三昧」とは、苦にあっても楽にあっても、その事実を事実としてそのまんまそっくり受取り、それに応じた働きが自然に出てくる無限なる力であるといえましょう。ですから私たちが普通何気なく言うているゴルフ三昧とか、釣り三昧とか、読書三昧などというのは、一時的に熱中している心理状態ですので、禅でいう「自性即無性」の当体から自然に出てくる無限なる三昧力とは、自ら次元を異にしています。次の『無碍』(さわりとなる物がない)とは、日常生活の何をするにも滞ることがなく自由自在であるということ…つまり、地獄のような塗炭の苦しみの中にあっても、方円の器に従う水のように、そのまんまを受容して自由自在に働く素晴らしい力を誰でも持ち合わせているということです。こうした『三昧無碍』という働きを「嬰児行」(赤子の働き)とも呼んでいますが、禅修行を志す者にとっては、喉から手の出るような境涯でもあります。俳聖芭蕉が病床にあった頃、臨終の近いことを知った弟子の一人が「どうか私たち弟子に辞世の句を賜りとうございます」と求めますと、芭蕉は「古池や蛙飛び込む水の音」と口ずさんだあと、「わしには辞世でない句は一句もない。昨日の一句は今日の辞世、今日の一句は明日の辞世…云々」と答えておられます。そしていよいよの間際に弟子に硯をすらせ「旅に病み、夢は枯野をかけ巡る」と書いて息を引き取ったということです。また「形見とてなにか残さむ春は花、山ほととぎす秋はもみじ葉」と歌っている良寛さまは、天保2年(1831)1月6日、その偉大な74年の生涯を閉じられました。看病に当たっていた貞心尼が「生き死にの境を離れて住む身にも、避らぬ(避けられぬ)別れのあるぞ悲しき」と詠みますと、良寛さまは苦しい息の中から「うらを見せ、おもてを見せて散るもみじ」と口ずさみながら大往生されたということです。この二聖人のように、目前に迫る死を自らが迎えているかの如く、生の衣を脱ぎ捨てて死の寝床に入るが如く、悠々として死に臨むことができたのも「無相の相を相として行くも帰るのよそならず、無念の念を念として歌うも舞うも法の声」の境涯を徹底背骨に刻み込まれていたからのこと。この様子がまさに『三昧無碍』なる真の道者の死に方であり生き態でもありましょう。そしてその心中たるや迷雲のかけらもない澄み切った秋空のように、まことにカラッ!としたものだったでしょう。この端的を『四智円明の月さえん』と詠っているのです。『四智』とは、衆生本来佛として当然持ち合わせている四つの智慧のことで、朝夕の看経のあと必ず回向文を唱えますが、その中に「法界の有情と同じく種智を円かにせんことを」とある「種智」(佛としての智慧は具えているが現れてない状態)のことです。この本来分けることの出来ない「種智」を、修行者に分かり易く説いたのが『四智』(大円鏡智・平等性智・妙観察智・成所作知)です。この『四智』を解くことは、紙面の都合上無理でもあり、例え解いたとしてもますます分かりにくくなると思いますので、極く身近な例をもって触れることにしましょう。例えば私が電車に乗って腰をかけているとします。そこに松葉杖を突いたお年寄りの方が入って来られて席を探しておられる様子。私は当然その姿を認めます。これが「大円鏡智」。よく見れば松葉杖を突いておられる老人であると知ります。これが「平等性智」。この様子を見た人なら誰しもが「さぞお困りだろう」と思うでしょう。これが「妙観察智」。そしてすかさず「どうぞこちらへ…」とその老人の手を取りながら、今自分が坐っていた席に導いてあげるでしょう。これが「成所作知」です。この一連の働きは全く分けることの出来ない「本来佛」の働きそのもので、多くの人は知らず知らずのうちにやっておられることなのです。これを観音菩薩行と申しまして、その場そのことを正しく見、正しく見分けて、それに応じて千変万化の働きをするのです。ここまでくれば釈迦や達磨と寸分違うことのない「佛」の出来上がりですから、行くも帰るも、歌うも舞うも一切の行為が『三昧無碍』を外れることはありませぬ。
 ―病名など 知りたくもなし 花野行く―
 (H10.4月 平林一彦様よりの寄稿)
 
 
 




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