寄稿「白隠禅師」第12号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その十二)―
 ―『無相の相を相として、行くも帰るも余所ならず、無念の念を念として歌うも舞うも法の声』―この句は「衆生本来佛」なる自己、つまり『自性即ち無性』という真実の自分を徹底自覚した、大悟した人の境涯を、外面的に見て『無相の相』と言い、内面的に見て『無念の念』と詠いあげたのです。これは「聖胎長養(しょうたいちょうよう)」といいまして、自分が悟り得た素晴らしい境地を他の人にも及ぼすための総仕上げの修行でもあります。大徳寺の開山大燈国師は、五条の橋の下で乞食と共に生活されること二十年…。その間誰もその名を知る人はなかったそうですが、このように自分を空しゆうして他の人の立場で考え、行動する道力と道眼を養う修行すること久しゆうして遂に機が熟したとき、水が低きに流れるように私の傍らに何気なく現れて来て、「おはよう」「こんばんは」「寒いですね」「かぜの具合はいかがですか」などと、私のような凡人と全く変わらないやりくちでの付き合いをします。この様子は、さきにも言いましたように「直に自性を証し」た者が、その悟りの中に安住することなく、更に釈尊が示された唯一無二の正道を憶念しながら、日々その実践に精進している姿でありますから、外から見ますと私のような凡人と変わりありません。しかもその人の「自性即ち無性」なり!と見抜いた中味から、自然に運び出す働きでありますから「こうした」「ああした」という形跡はありませんので、その人の心中たるや窺い知ることはできませぬ。この消息を『無相の相』と詠んでいるのです。だから相(姿)が無いということではなく、即今只今、自分がやるべきことを無心にやっているその中味の様子です。例えば、あなたの目前の道路の真ん中で、子供が無心に遊んでいるとしましょう。そこに驀進してくるトラックが来たら、あなたは自分の危険のことは省みることなく、咄嗟の機転でその子供を救おうとなさると思います。もしこれが自分の子供としたら尚更のことでしょう。この端的が「衆生本来佛」として、自分のことは省りみることなく、今やるべきことをやろうと思わなくてもちゃんとやっていることが、とりもなおさず『無相の相』としての本来の自分の姿なのです。この境涯に到りますと「病気もよし健康もよし」「貧乏もよし金持ちもよし」「晴れてよし曇ってよし」「災難に遭うもよし死ぬもまたよし」。この上更に求めるものが無ければ、さりとて捨てるものもないから『行くもよし帰るもよし』。行住坐臥の日常生活のそのまんまが自分の奥座敷、全く『余所』ということはありませぬ。この消息を『行くも帰るも余所ならず』と詠われているように見えます。ここまでは『自性即ち無性』という真実の自己を外側から眺めて、假りに『無相の相』とした人の働きを詠われたのですが、次は内面からみた境涯を『無念の念を念として歌うも舞うも法の声』と詠われるのです。『念』という字を分解してみますと「今の心」となっています。つまり、即今即今その場のことについて、フイフイと出てくる思いとみたらよろしいでしょう。この『念』は、人間として生きている限り絶えることはないと思います。ところが白隠禅師はこれを名付けて『無念の念』(念が無い念)と言うておられますが、一体「いま」「こうして」いる間も、寸時として止まることなく出てくるこの『念』を、いかに捌けばよろしいというのでしょうか。ところで私たちは、この『念』の流れ出る根源である心というものを究め尽くして、真の安心立命の生活を欲して坐禅に精を出していたのでした。そして時節因縁を得て「自性即ち無性」なり!と見抜きました。その「無性」の中から湧き出る『念々』は、即ち『無念の念』でなければなりませぬ。この『無念の念』を『正念』とも呼ぶこともあります。この正念は、極めて短い時間の間にふいふいと出て来る思いでもあります。例えば、道で美しい女の人に逢ったら「きれいな人だなあ」と、ふい!と出て来る思いがあります。人間である以上どうにもならないことなのですが、この思いをいつまでも引きづり廻していますと自制がきかなくなり、家庭崩壊にもつながりかねません。そこで、常に坐禅によって鍛えて来た道力をもって、出てきた思いを「はい、それまでよ」と断ち切ってしまうのです。この端的を『無念の念』と詠われているように思います。つまり、美しいときは美しい!と思うまんま、憎いときは憎い!と思うまんま、悲しいときは泣くまんま、嬉しいときは笑うまんま…。だからこうしてやろう、などの心の図らいは毛先でついたほども無い。この境涯を手に入れたら『歌うも舞うも法の声』とありますように、子供を叱るのも、怒られて泣くのも、口をすすぐガラガラも一切合切が『法の声』で、「衆生本来佛」の独り歩き。佛像の前にかしこまってお経を読んだり、念仏を唱えるだけが『法の声』ではないということになります。こうした自由自在な生活態度こそ、佛国土に住む、真の道人といえるでしょう。
 ―心とは いかなるものとは知らねども 出て来る思いは み佛の声―
 (H10.3月 平林一彦様よりの寄稿)
 
 




前号寄稿一覧次号