寄稿「白隠禅師」第10号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その十)―
 ―『いわんや自ら回向して直に自性を証すれば、自性即ち無性にてすでに戯論を離れたり』―
 八、九号では、釈尊のみ教えを信じて、例え一本の線香が燃え尽きるまでの僅かな時間でも、断続することなく坐禅を続けている人、あるいは法縁を得た人が心の底から素晴らしい教えであるとして発心し、その教えを日常生活の中で実践することには、限りない幸福が訪れることだろうと約束されたのでした。この段では『いわんや(それにもまして)自ら回向して』とありますように、より積極的に自己究明に骨折っている真の修行者が、やがてたどり着く境地を詠われるのです。さて、今までの私たちは自分の責任において解決しなければならない事柄の何でもかでも、自分の外に向かって頼ろうとする気配があったようです。そして叶わぬ時の神頼みとばかりに、無闇矢鱈に向こうに向かってお祈りするのですが、そう易々と「棚から牡丹餅」式の、人の願い事を叶えて下さる神佛はありません。こんな時自分が迷っていることは棚に上げて「神も佛もあるものか!」と、却って神佛を逆恨みしたこともあったようです。今斯うした奇しき縁を頂いて「衆生本来佛なり!」という声にびっくりした私達は、ハッ!と目が覚めたように、他に頼ろうとしていた心を三百六十度転回して生まれながらに身内に具有している「佛」に相見する為の、懸命な禅修行に打ち込むのです。こうした『回向』を絶やさず修行しているうちに、ある日突然「衆生本来佛」としての大光明の中に生かされている真実の自己に気付く時節が必ずある筈です。よもや白隠禅師の言葉に嘘はありますまい。この時節到来の端的を「本来の面目」とか「一無位の真人」などと呼んでいますが、ここでは「衆生本来佛なり」というときの「佛」を指して『自性』(自分の本当の心)と言うておられます。この『自性』という一物を、坐禅の中で、あるいは日常の立居振舞の中の<その場>で「この俺も『本来佛』だったのじゃ」と、ハタ!と膝を打って納得できたならば、そのまんまが『自性即ち無性なり』であったことが分かることであろう、と詠われるのです。『無性』とは「有る」「無し」の二見に渉らない絶対的な自己の存在のことです。このことは、静かに坐禅して「廻向返照」を続けていますと、これまで「これが自分である、これが自分の本性である」と認めて、自分の欲望を満たさんが為に悩み苦しんでいたことが、畢竟「無自性」あったことにハッと気付く時節があります。このように自らが、自らの体験によって目覚めることを『証する』と言うています。この境地だけは直に座布団の上にドン坐って、その時節を待って冷暖自知して頂くほかはありませぬが、敢えて口を挟むとすれば『直に自性を証す』までは、自分があり他もあったものが、ひとたび『自性即ち無性なり』と徹底納得してみれば、自分も他もない世界が目前にはっきりと現出します。例えば、紅葉彩る山脈を眺めているとき、そこには自分も山もない…あるのはただ、美しい!という心の動きがあるだけ…。茶を飲む時は、うまい!というだけ…。病気のときは医者に診てもらうだけで、更に身の不安というものがない…。ようするに「縁に逢うては肩に力を入れず、心を用いず、ただその縁に随う」だけ…。ある歌人が「岩もあり木の根もあれど、さらさらと、ただ、さらさらと水は流れる」と歌います。本当に、水はどこから流れて来るともなく、どこに流れさるでもなく、たださらさらと無心に流れています。そしてその流れは、周囲の景色のあるがままの情景を写しながら、流れを止めることはできない…。たださらさらと「流れる」だけ…。白隠禅師が『直に自性を証すれば、自性即ち無性にて…』と詠われている真意は、どうやらこの辺りにあるように思います。試みに静かな処に坐って自分の心と向かい合ってみて下さい。開けっ広げの眼や鼻、耳から周囲の様子が次から次へと入ってきて、その様々なことを次々と感受しながら、一瞬も止まることなく「流れる」ものがある…。どこから流れ出て、どこに向かって流れ去るのか皆目分からないが、確かに「ただ流れ来てただ流れ去るだけ」の思念があることにお気付きの筈です。この人間であるが故にどうしても湧き出る六情六塵に捉われて止まることなく「ただ流れる」(流されるのではない)心の本質を、体験的にはっきりと自覚することができたとき『自性即ち無性にて』と詠われている白隠禅師に肚が読めるような気がするのです。釈尊をはじめ歴代の祖師方は、何とかして私達衆生にこの『自性即ち無性』なる絶対界に導いてやろうとして、口が爛れるほど説きに説いてこられましたが、釈尊がお亡くなりになる時「このことだけは説くことが出来なかった」と白状されておられますように『無性』という当体は、自分自身が実感として受け止める境地であって、言葉の上ではとても表現できるものではありません。ここのところを『すでに戯論を離れたり(ここに到って言うことなし)、ただ冷暖自知するのみ…』と詠われるのです。従ってこの境地を知ろうとする人は、実地に坐禅をなされて、直に自分の肚の中を調べたところで『自性即ち無性なり』と決定するほかはないということになります。試みにこの事を得たというお方があれば、是非お逢いして語り合いたいと思う心切であります。
 ―流れ去る時もうつつに河の岸 夕陽の穴を出て入る蟹ぞ―
 (H10.1月 平林一彦様よりの寄稿)






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