寄稿「白隠禅師」第9号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その九)―
 ―『辱くも此の法を、一たび耳にふるる時、さんたん随喜する人は、福を得る事限りなし』―
 先号では坐禅における妙徳を唱われていましたが、この段では、たとえ坐禅ができない人であっても、その功徳を享受することができると唱われるのです。即ち『辱くも此の法を』で、この上ない佛のみ教えというものを、何らかの縁に恵まれて『一たび耳にふるる時』、「ウーン!これは大した教えじゃ!」と肚の底から『さんたん随喜』できる人はまことに稀なことではあるけれども(もしそういう人があるとしたら)、その人は『福を得る事限りなし』で、必ずや限りない『幸福』を受けることは請け合いである…と、約束されるのです。ここに『随喜』とあるのは、佛の教えを信じて「喜び随う」という意味ですが、一般的には他人が善い行いをしていることを見たり聞いたりしたとき、そのことを自分の喜びとして積極的に参加しようとする人を『随喜』の人と呼んでよいでしょう。ところが私のような凡夫は、他人が善いことを進んでやっているのを見て「いいことをしているなあ」と思いこそすれ、なかなか参加できないばかりか、時には妬み心が湧くこともあります。これも自分の利害損失のみを考えて生きて来た習慣がそうさせるのでしょうが、誠に情けない限りです。次に『福を得る事限りなし』と詠っております。私たち凡夫が言う「幸福」というものは、金が多くあれば幸福・貧乏なら不幸、社長なら幸福・万年社員なら不幸、といった具合に、自分の欲望を満たされているか否かによって、その人の心が決める幸福であり、不幸であります。ですからその幸福というものは限りが有り、長く続くものではありません。本当の「幸福」というものは『限りなし』でなければなりませんが、そんな「幸福」というものがあるでしょうか?因みに辞典を牽いてみますと≪「幸福」とは、福を佛にお願いして、佛のかたから与えられるもの≫とありました。果たして自分勝手な願い事を叶えて下さる佛さまがおられるでしょうか。仮に願いさえすれば不幸を幸に替え、自分が欲しいと思う物を与えて下さる都合のよい佛さまがあるとすれば、それを佛と名付けるお方はどこにおられるのでしょうか?この佛の所在を確かめようともせず、無闇矢鱈に祈ってみても福を授けてくれるどころか、自らが落ち込む苦の穴を掘っているようなものだと思うのです。昔、中国の趙州禅師は何とかしてこの佛の所在を弟子たちに教えてやろうとして「金属で造った佛は溶鉱炉に入れれば溶ける。木製の佛は火で燃える。土で固めた佛は水に入れれば溶ける。火にも焼けず水にも溶けることのない真実絶対なる佛は、お前さんの身の中に坐っているぞ!」と言うておられます。また、丹霞という禅師が旅の途中、慧林寺というお寺に宿を借りたときのことです。夜話の中で和尚から「ここのご本尊は、どんな願い事でも叶えて下さる有り難い佛さまである」と、本堂に祀ってある木佛を指しながらの自慢話を聞かされました。翌朝は何十年に一度という寒波到来、修行僧たちは庭掃除するどころか、身を寄せ合って震えているばかり…。この様子を見られた丹霞禅師は何を思われたのか、和尚が自慢していた木彫りのご本尊を持ち出して斧で割り、修行僧を呼び集めて焚き火をはじめられたのです。これを知った和尚は、カンカンになって怒り「天下の丹霞禅師と呼ばれて名高いあなたが、ご本尊様を焼いて尻を温めるとは何ごとでございますか!きっと佛罰がありましょうぞ!」と、眉を吊り上げてがなり立てました。丹霞禅師は平然として、手にした棒切れを持って灰をかき廻しながら「ご坊は昨夜『この寺のご本尊は、由緒ある立派な佛さまである』と言うておられましたなあ。そこで拙僧は、ご坊の言われるとおりならてっきりご霊骨が出てくるだろうと思って焼いてみたが、いくら探してもそれらしいもの見つからん。ご坊の本当の佛さまはどこに居られるのじゃ!さあ言うてみなされ!」と迫りました。和尚は言葉もなく、ただ口をモゴモゴさせるばかりだったということです。さて、あなたでしたら何とお答えになるでしょうか?思うに、私たちが朝夕礼拝しているご仏壇の中にある佛像は、釈尊や諸佛の像ではなく、釈尊が大悟された「佛心」そのものであると解しています。「佛心」とは、白隠禅師が『衆生本来佛なり』と言われたそのものでありますから、そのことをはっきりと自覚した人なら、自分の外にある佛を礼拝するのではなく、自分の内にある佛を礼拝することになります。そして、私たち人間はすべて釈尊と寸分変わらぬ「佛心」を持ち合わせ、今、此処で、斬うして働いている「佛」の当体であることを理屈抜きに体得するのが坐禅の目的と言えましょう。従って、佛教、特に禅宗では信仰とは言わず「信心」(自分の内なる「佛心」を信じる)と呼んでいます。こう解しますと、白隠禅師の言われる限りない「幸福」とは向こうにある佛から与えられるものではなく、却ってこの肉体そのものが「幸福」の固まりでありますから、立つも坐るも泣くも笑うも、すべてがこの「幸福」の二文字が働いていることになります。古人はこの消息を「晴れてよし 曇って又よし富士の山 もとの姿は変わらざりけり」と詠じております。
 ―神詣お寺詣の願かけは うちわで向こうをあおぐに似たり―
 (H9.12月 平林一彦様よりの寄稿)
 ◆質問欄◆
  白隠禅師が「夫(そ)れ摩訶衍(まかえん)の禅定は、称歎するに余りあり」と歎じておられる『摩訶衍の禅定』とはどんなものですか?」(柏島 某氏)
 ◇回答◇
  尤もなご質問。このお尋ねは今迄もありましたが、私はその都度「あなたは坐禅の経験がありますか?未だでしたら是非やってみて下さい。その上で『称歎するに余りあり』という『摩訶衍の禅定』について語りあいましょう」とお答えすることにしています。なぜこんな意地悪そうなことを言うかと申しますと、例えばここに私の大好きな菓子があるとしますと、私はこの菓子を食べた経験がありますから、味を知っています。ところが食べたことがない人に、あんな味だこんな味だ、といくら説明しましても、この菓子の本当の味は伝わりません。それと同じように、坐禅をされたことの無い人にいくら『摩訶衍の禅定』についてお話しましても、その端的については分かって頂けないと思うからです。そういう意味で、このご質問については字意のみを看ることにして、その中身については、あなたと坐禅を共にするご縁を得た折りに譲りたいと思います。さて『摩訶』とは≪比較するものもないほど素晴らしくそして大きなもの≫、『衍』とは≪水の流れる方向≫という意味ですが、ここでは悟りの向こう岸に渡る手段のことで、転じて船ということでしょう。従って『摩訶衍』とはこの大宇宙をまるごと乗せてもなお余りある大きな船、ということになりましょうか。その大きな船が『禅定』であるというのです。『禅』とは心を静かに保つこと。『定』とは三昧とも呼んでいますが、今のその事に成り切る行です。字意を解きますとこういうことになりますが、簡単に言えば坐禅の当体そのもののことです。この坐禅についてはこれまでも看てきましたし、これからも触れることになりますので、ここでは触れないでおきます。しかし道元禅師も言うておられますように「正しい姿勢で坐禅をすることが、仏道に入る正門」、すなわち正しい入口ですから、何はともあれ実地に坐禅をなさることをお勧めします。願わくは、禅堂でお逢いできることを祈っています。





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