寄稿「白隠禅師」第8号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その八)―
 ―『一坐の功を成す人も、積みし無量の罪ほろぶ、悪趣何処に有りぬべき、浄土即ち遠からず』―
 先号までは、今こうした佛縁を得た私に対して「衆生本来佛なり」と示され、その教えどおり坐禅に鞭打った結果「本来佛」である自己をハッキリ自覚させて頂きました。そしてこの「本来佛」が歩くべき道筋を『布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等』と示されたのでした。この段ではそのうちの「坐禅」を取り上げて「一坐の功を成す人も積みし無量の罪ほろぶ…云々」と、その妙徳を説き始められるのです。「一坐の功を成す人」とは、坐禅するとき一本の線香を立てて、それが燃え尽きるまでの三十分〜四十五分位坐りますが、これを「一坐」といい、この一坐一坐の坐禅を積み重ねている人を「功を成す人」と言います。東福寺(京都)の開山聖一国師が「一時坐禅すれば一時の佛なり」と言われていますが、正にそのとおりです。たとえ一分という僅かな時間であっても、倦まず弛まず坐禅に精進しておれば、必ず「本来佛」としての真実の自己にまみえる時節がある筈です。さて初めにも触れましたように、初心者の方が禅堂に来られますと、指導に当たられる人から禅堂における作法や坐り方など、細々と指導を受けます。中でも臍下丹田による呼吸方法は特に丁寧に教えてくれます。その呼吸方法について簡単に説明しておきますと、坐りましたらまず下腹がペッシャンコになるほど息を吐き切ります。これを数回繰り返しましたら臍下丹田から吐き出す息を「ひとーつ、ふたーつ」と数えてゆき、十まで数えましたらまた一に戻って数え直します。これを何回か繰り返していますと、いつの間にか自分という存在が無くなって、「ひとーつ、ふたーつ」だけが残ります。ここまで来るには相当の修行を覚悟しなければなりませんが、この端的を「数息三昧(数息観)」と呼んでおります。この「数息三昧」がいけますと、次には「随想三昧(随想観)」に移ります。「随想三昧」とは「数息三昧」から離れましたら外部から自然に聞こえてくる鳥の声、風の雨音の音、或いは感触として伝わってくる一切のことと一枚になって座ることです。例えば、雀の声を聞くときは「チュンチュン」、雨の時は「ザアザア」、暑い時は「あつい!あつい!」の成りきり三昧…。こうして坐禅によって身に付けた「三昧力」を日常生活の中に用いる時、苦に逢えば「苦しい!」三昧、悲しい時は「悲しい!」三昧、痛い時は「痛い!」三昧…。この三昧にある時は、自分という意識がありません。有るのは風が吹けば破れ障子がブーブー鳴るように、苦しい時は泣き、楽しい時は笑うだけ…。白隠禅師はこの「三昧」の境地を「積みし無量の罪ほろぶ、悪趣何処に有りぬべき」と詠っておられますように、無心にその場その場の縁に随っている「三昧」の端的には、過去に積み重ねて来た罪とか罰とか、苦楽という念いが入る隙間はありません。従って「悪趣何処にありぬべき」でどこを探しても「悪趣」と名付けるものは有りません。この消息を「浄土即ち遠からず」と詠いながら、「その『三昧』道が衆生本来佛としてのお前の住家じゃ!」と、示して頂いているように見えます。ここに「悪趣」とあるのは、人間が人間であるが故に、自分では気が付かない間に犯し続けてきた悪行のことです。佛教ではこの悪行が因となって必然的に赴く果て…、つまり「六道(地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上)輪廻」の迷界を『悪趣』と呼んでいます。私がこう言いますと、あるいは「俺だけはそんな悪行はしておらんぞ!」とお叱りになる方があるかもしれませんが、でも胸に手を当ててよく考えてみて下さい。例えば「あれを食いたい、これを食いたい」は『餓鬼道』。物欲、淫欲、食欲など本能のままに生きたいと願い行動するのは『畜生道』。これらが充たされないと心の中に怒りが生まれます。これが『阿修羅道』ではないでしょうか。これらの悪道(貧瞋痴の三毒とも言います)から抜け出す方法は唯一つ、人間から離れる以外にない…。そこで佛祖正伝の坐禅によって「三昧力」を身に付け、この「悪道」輪廻の迷界から脱却しようとするのです。そしてこの懸命な修行そのまんまが「浄土即ち遠からず」で、その一挙手一投足が即ち本来佛としての働きであると言えましょう。
 ―いわし雲 流れて吾も 流さるる―
 (H9.11月 平林一彦様よりの寄稿)





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