寄稿「白隠禅師」第7号


 ―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その七)―
 ―『布施や持戒の諸波羅蜜、念仏懺悔修行等その品多き諸善行、皆この中に帰するなり』―
 先号では、「称歎するに余りあり」と、白隠禅師が口を極めて感じ入っておられた坐禅というものに実際に参じてみて、生死、苦楽、貧富、損得などの両辺に渉らないもう一人の自分…つまり「衆生本来佛なり」と自覚することができました。しかしこの段階ではまだ気付いた程度のことで、いわば赤子のヨチヨチ歩きの様なものでして「衆生本来佛」としての一人歩きには遠し遠しと言わねばなりません。そこでこの段では「衆生本来佛」が自由自在に闊歩できるようにする為に『布施や持戒の諸波羅蜜』という修行者としての、実践すべき基本的な項目を挙げ、その具体例として『念仏、懺悔、修行等』の諸善行を示すとともに、これら一切の行為は『皆この中に帰するなり』と詠いあげています。さて『諸波羅蜜』とは、このことを着実に実践しておれば自ら悟りの彼岸に到る道筋のことです。ここでは「布施」と「持戒」だけを挙げていますが、このほか「忍辱(忍耐)」「精進(努力)」「禅定(静思)」「智慧(佛の心)」の四つがありまして「六波羅蜜」と呼んでおります。この「六波羅蜜」全部に触れることはご縁を頂いた時にゆずるとしまして、本段では「布施」と「禅定」だけ簡単に勉強することとしましょう。
 先ず「布施」には大まかに分けて「布施」と「財施」があるとされています。「布施」とは、私達のような迷える者を済度することを一生の念願とし、俗世の一切のしがらみから離れて出家し、自分が体得した御佛の教えを私達に説示するとともに自らがその範を示している人のことをいいます。但しこの「法施」は、決して出家しなければ出来ないということではありません。在家の者であっても、真に佛の御教えを背骨に刻み込み、何とかして他の為に尽くしたいと身を投げ出して生活をしておられる方なら、もう「布施」をされていると言っていいでしょう。そして「法施」と言えば難しい教典と説くことだと思いがちですが、決してそればかりではなく、例えば「お早う」「こんばんは」など、日頃何気なく何気なく交わしている挨拶なども立派な「法施」だと思うのです。次の「財施」とは、食物、金銭、衣服などの物を施すことを言います。説明すればこういうことになりますが、施しに区別が有る訳ではありません。要するに佛の慈悲心をわがものとして、他人の苦楽と共に苦しみ、共に楽しみ誰彼の区別なく恵み施すことだと思えばよろしいでしょう。したがってお寺に差し上げる金品の重みが布施ではありませんので、お間違いのないようにして頂きたいと思います。
 二つ目の「禅定」とは、坐禅そのもののことですが、「三昧(ざんまい)」とも呼んでいます。「三昧」の端的は、自分の責任としてやらなければならないその事と、一枚になって働いているその場その場の様子です。例えば、大工さんなら<トントン三昧>、左官さんなら<ベタベタ三昧>、算盤を持てば<パチパチ三昧>、禅堂に坐れば<坐禅三昧>ということになりましょうか。
 さて次に『念仏懺悔修行等』と申されています。「念仏」とはご存じのように「南無阿弥陀仏」と唱える称名のことで、禅宗でも念仏禅と言いまして、これを唱えることがあります。この念仏禅の究極は、頭テッペンから足の爪先まで「なむあみだぶつ」になり切ることです。他に拝む対象が無くなると同時に、拝んでいる自分も無くならないと本当の「念仏」とは申しません。一遍上人はこの消息を『唱うれば 我も佛もなかりけり ただ なみあぶだぶつ なみあぶだぶつ』と白状しておられますが、この境地こそ禅修行者としては喉から手が出るほど欲している三昧修行であります。
 次の『懺悔』とは、佛教信者が佛の教えを日常生活の中で実践すべく精進しているうちに、人間であるが故に断ち切る事の出来ない業罪の数々が身を責める時節があります。その時自然に湧き出る悔悟の念を「懺悔」と呼んでいますが、佛教でいう「懺悔」とは、全身全霊を佛の御前に投げ出して、二度と罪業を重ねないための修行精進を誓わなければなりません。黄檗希運禅師は暇さえあれば五体を地に伏して礼拝しておられました。この様子を見ていた一人の僧が「和尚さんはどこに居ても、暇さえあれば礼拝しておられますが、一体何に向かって礼拝しておられるのですか?」と問いました。すると禅師は「ただ礼拝すること斯くの如し」と言いながら、なお「懺悔」の礼拝を続けられたということです。これは一例にすぎませんが、真に「衆生本来佛」としての真実の自己を自覚された人なら、この黄檗禅師と同じように「懺悔懺悔」の日々を送っておられることでしょう。この意味からして「佛道とは『懺悔道』なり!」と言い換えても過言ではないと思います。以上「諸波羅蜜」のうち『念仏懺悔修行』などの『諸善行』を説いてこられた白隠禅師は、急に言葉を改めて「これら一切の行為は『皆この中に帰するなり』」と力を込めて言うておられますが、一体「この中」とは何を指しているのでしょうか?唐の時代の百丈禅師にある僧が問います。「人間として一番仕合わせとするものは何でしょうか?御体験の程お示し下さい」と。すると禅師は坐禅の相を示されながら「『いま』『ここで』『こうしている』この中にこの上ない仕合わせがあるのじゃ!」と答えられたということです。
 ―盛る火は己が心の業火にて 今覚えたり 罪の深さを―
 (H9.10月 平林一彦様よりの寄稿)








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