寄稿「白隠禅師」第6号


―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その六)―
―『夫れ摩訶衍の禅定は、称歎するに余りあり』―
 先号までは、六道輪廻の迷いの生活から抜け出すことのできないのは、何も宿命とか運命とか悲観的なものではない。迷いというものは自分中心的な物の考え方から生まれてくる愚痴が迷わせるのだ。いつまでも愚痴から愚痴へと闇路を歩くような生活をしていたら、一生かかっても安心立命の生活はできまい。この問題を解決する方法は唯一つ「衆生本来佛」なる真実の自己に目覚めることだ…と、親切に指示して下さいました。
 この段から、白隠禅師が冒頭で詠い出された「衆生本来佛なり」の立場から、『摩訶衍の禅定』の妙徳を無上に称歎されながら、「衆生本来佛」と自覚した者の日常の働きは『皆この中に帰するなり』と説き始められるのです。『摩訶衍』とは、大きな乗物という意味で、この乗物は誰彼を問わず迷いの世界から悟りの佛国土に運んでくれるというものです。『禅定』とは≪三昧≫とも釈しますが、ここでは≪坐禅≫そのものを指しています。したがって『摩訶衍の禅定』のことを≪大乗禅≫と呼ばれていまして、誰でも佛祖伝来の坐禅修行を続けることによって、いつの日か釈尊と同じように迷いの世界の此岸から、悟りの彼岸に渡ることが出来るということになります。こうして釈尊は≪大乗禅≫という乗物を用意して、「さあ乗れ!さあ乗れ!」と待っていて下さるのですから、このチャンスを逃す手はありません。乗ってみようじゃありませんか。ただし釈尊の御教えを信用できないという人は乗らなくても結構ですが、折角「本来佛」として生を受けながら、死んだ後までも六道輪廻の迷界を果てしなく輪廻することになるでしょう。
 さて、白隠禅師はこの坐禅の功徳を『称歎するに余りあり』と大層誉め上げておられるわけですが、坐禅のどこを称歎されているのでしょうか。
 私は広島の原爆の灰をかむり、頭髪は抜け、歯も失いました。その上当時では不治の病ともいわれていた肺を患いまして、死に対する不安から佛教書を探し求めては読んだことがあります。その頃、この「白隠禅師坐禅和讃」を読みまして禅師がこれほど称歎されている坐禅というものを一度経験してみようと思い、広島の国泰寺、三原の佛通寺など各地の禅堂を訪ねては先輩の見よう見まねの坐禅を続けました。そのうちあれ程頑固に続いていた微熱がいつの間にかなくなり、食欲も日毎に増してきたのです。そして医師の許しを得て職場に復帰した後も暇さえあれば禅寺を訪ねては坐禅する一方、説法会にもできるだけ参加するといった月日を送りました。
 こうして肺病は完治したのですが、今から十八年前、体調が思わしくないので原爆病院で診て頂いたところ、甲状腺に異常が見つかりまして手術をすすめられたのです。私はそれを断りましてコバルトによる治療を続けているうち、ある日医師に呼ばれまして「このままでは五年の命も保証できない」旨を申し渡されたのです。その瞬間私はやり残した禅のことが頭に浮かびまして、迷うことなく五十五歳で退職しました。それからというものは病気のことも家族のことも打ち忘れて、傍目には気が狂ったのではないかと思われるほど、坐禅に明け暮れたのです。さきにも申しましたように、坐禅というものは姿勢を正して坐り、臍下丹田で静かに呼吸を続けるだけの簡単な修行で、誰でもその気になれば出来ることです。ただ坐禅する人に要求されることは、病気を治すためにとか、自分の幸せのためとかいうようなことを求めないで、『只』の処に坐るということです。言い換えれば、天と地の空間に自分を投げ出し、一切の世事のしがらみから離れて『只管打坐』することです。こうして無条件に坐禅を続けていますと、病気とか生死とか、貧富などにとらわれることのない本当の自分に出合う時節が必ずあります。この時あなたは『称歎するに余りあり』と、無上に誉め讃えて止まない白隠禅師の肚とひとつになることができる筈です。今年で古稀を生かして頂いている私は、遠くの禅寺を訪ねることはできませんが、毎日自宅の一室、あるいは近くの海徳寺の禅堂で坐禅を続けさせて頂きながら、釈尊正伝の坐禅に巡り会うことのできた幸せを味あわせて頂いております。
(H9.9月 平林一彦様よりの寄稿)

 ◆質問◆
 「坐禅は何も求めないで只の処に坐る」とありますが、「只の処」とはどこを指すのでしょうか?
 ◇回答◇
  喉元に刃物を突き付けられたような鋭いご質問…。こう改めて詰問されますと一言もないのです。なぜなら私の言う「只」の一字には意味がないからです。でも折角のご質問ですから、敢えて弁を挟んでみましょう。
  ある時、坐禅にお出でになった某氏から「坐禅すればどんな利益があるのか?」と問われたことがありました。この問いに対して、私の口から思わず出た言葉が「只の処に坐る」でした。要するに「只の処」とは、心の図らいを用いず肩に力を入れず、身を投げ出してそこに置く…。≪只≫それまでよ…と言うほかはありません。この消息を「無所得の禅」とも呼んでいます。








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