寄稿「白隠禅師」第5号

―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その五)―
―『六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり。闇路に闇路を踏みそえて、いつか生死をはなるべき。』―
 「六趣」とは、衆生としてのわたしたちが必然的におもむき引かれゆくところという意味で、いわゆる六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)と呼ばれている迷いの世界のことです。この六道といわれる世界は、死後に赴くというものではなく、私たちが現実に自分で作り出し、自らが住んでいる世界でもありましょう。例えば、あれが食べたいこれが欲しい、は『餓鬼』の世界であり、自分の思うようにならない時は愚痴りますが、これが『畜生』の世界。更にこれらが高じると何につけても怒りたくなる、これが『修羅』の世界といえましょう。そして自分が作った『地獄』で、もだえ苦しみながら輪廻しているのが衆生と呼ばれている私たちの日常生活ではないでしょうか。次の『因縁』というのは、ある一つの現象(結果)が生じる『直接的原因』と、その原因を助ける『間接的原因(緑)』のことだそうです。例えばここにトマトの種があります。このトマトの種は、トマトとして結実する『原因』なのですが、袋にあるままではトマトの実は成りません。人の手によって種蒔きをし、肥料を与え、手入れをするなどの縁。そのほか土とか水とか、あるいは太陽の熱とかの大自然の恵みによる縁があればこそ、やがて見事なトマトの実が期待できるのです。このように受取りますと、「縁」というものは単純なものではなく、重要な役割を持っているように思いますし、大宇宙の一切の存在はこの「因」「縁」「果」という法則からはみ出し得ないような仕組みになっているように思うのです。省みて私達の日常生活は眼耳鼻舌身意(六根)を「因」として、憎い、可愛い、欲しい惜しいといったような、迷いの「果」を作っているようです。そして自らがその「果」を持て余し、苦しんでいるように思うのです。こんな私に対して白隠禅師は「六趣輪廻の因縁は、己が愚痴の闇路なり」と詠じながら『お前が六道の迷路を輪廻して果てることができないのは、お前が作り出す愚痴が原因じゃ!よりによって苦悩の闇路を歩くことはあるまい!』と諌めて下さるのです。そう言われても、長い生活習慣のうちに染み付いた頑固極まる煩悩というものは、簡単に捨て切れるものではないし、たとえ捨てきることが出来たとしても私のこの眼が縦になるわけでもなければ、鼻が横になるわけでもありません。畢竟、この衆生という五体から行くところがないとすれば、一体全体、六道輪廻の迷界を抜け出てどこへ行けというのでしょうか。そこで白隠禅師は、この重要問題の解決方法を示されるかのように「闇路に闇路を踏み添えて、いつか生死をはなるべき」と詠われるのです。ところで坐禅を経験された方はお分かりのように、自分の心の中は断然として、六道輪廻の割分が占めております。貪欲、見栄坊、薄情、陰口、法螺口、けち根性、嘘つき、二枚舌などなど…、これでは六道輪廻の闇路に迷い込んでも文句のつけようもありません。このような己の愚かさに気付かず、徒らに欲望に振り回されて闇路を歩き続けているようでは、すでに迷界をはなれている「本来佛」という真実の自己に目覚めることは、猫年になってもないのは当然といえましょう。その反面、人を思いやる心、悪を憎み善を好む心、是非を分別する心、人の為になりたいという心なども合わせ持っているようです。こうした素晴らしい本質を持っている自分に気付いて、その心を高めるべく、着々と実践に精進して怠ることがなければ、必ずや極楽浄土とも呼ばれている佛国土に生かされている自分であることを、冷暖自知でできる時節があることは請け合いでありましょう。そして、この真摯な日常生活のあり方が「衆生本来佛なり」としての働き方であるといっても過言ではありません。何はともあれ、自分の心の中を冷厳に見据えることが必要であります。その手段として是非静かに座って、身を調え、呼吸を調え、心を調えて「本来佛」としての受け皿を作りたいものです。
(H9.7月 平林一彦様よりの寄稿)





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