寄稿「白隠禅師」第3号

―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その三)―
―「水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に佛なし」−この段は白隠禅師が冒頭で「衆生本来佛なり」と前置きをされ、人間の本質を直指されたことから、その『衆生』と『佛』の関係を水と氷にたとえながら、更に噛み砕いて説き示されようとされるのです。私という衆生は生まれた時から、何ものにも捉われることのない素晴らしい実力の根源、つまり『本来佛』として自由自在に働くことのできる智慧を持っていました。ところが永い生活習慣の中で、いつの間にか自分中心の思いが強くなってきて、何事も自分が自由にしたいという気配が生じたのです。そしてそのことが自分の思うようにならず、心が満たされない時は、糸の切れた凧のように限りなくそれを追い求めて、欲望を満たそうとしているようにみえます。
 このように折角『佛』としての本質を持ちながら、佛としての心の働きを発揮することができず、いたずらに喜怒哀楽という感情に振り回されて、迷い・悩み・苦しみの世界を自ら作り、自らがその中で浮き沈みをしているのが現実の私のようです。そして『本来佛』としての自分を確認しようともせずほったらかしておいて、自分の外に救いを求めようとするから、邪教に突き入るすきを与えることになり、おしまいには先祖代々守り続けてきた財産まで根こそぎ失うことにもなるのです。こうした私のような者のいる現実を嘆かれた白隠禅師は、『切れば血の出るお前さんのその肉団子の中に、立派な佛さまがござることを忘れて外に向かって佛を求めてなんとする!』と叱咤されながら、「水と氷の如くにて、水をはなれて氷なく、衆生の外に佛なし」と、いつまでも分かろうとしない私に対して、水と氷という身近なものをたとえに出して、分かり易く説いてやろうとしてくださるのです。
 さて、当然のことながら、「水」を零度以下の温度にしますと「氷」となります。一方は液体であり、一方は固体です。姿形こそ違いますけれども水の本質は変わりません。しかし、「水は方円の器に隋う」という諺がありますように、水はどんな形の器に入れてもその器に合ったように入りますが、氷は四角に凍ったものであれば丸い器には入りません。丸く凍った氷は四角の器には入りません。つまり私たちが生まれながらに持ち合わせている佛心はこの水と同じように、貧乏に逢うときは貧乏という器に、病気に逢うときは病気という器に、それが塗炭の苦しみの境遇であっても、嫌うということなくその器の形にはまってしまうというのです。しかもこの佛心は、地獄に在って地獄に在ることを知らず、極楽に在って極楽に在ることを知らず、只自分が置かれている境遇の中で、今やるべきことを着実にやっている姿がそこにあるだけ…。ところが「本来佛」としての本質を持っている自分であることを忘れていた私は、何事も自分の思いの中で解決しなければ気が済まない、いわゆる「氷」のように固まった「我」がいつの間にか出来ていたのです。そして避けて通ることのできない、例えば生老病死という人生のコースでさえ、見つめようとしない…。出来るだけ避けて通りたい…、といった「わがまま」で、しかも不自由な生活を送っていたようです。このように「わがまま」で、自分中心の思いの世界を勝手に作り上げ、そこで生活していたことに気が付いた私は、この問題解決のために坐禅という方法を選んだわけです。先にも触れましたように、坐禅とは背を真直ぐに立てて坐り、吐く息吸う息を正しゅうします。そして生きている以上どうしても湧き上がる自分「が」自分「が」、という処から流れ出る妄念を、臍下丹田という溶鉱炉に押し込んで溶かしてしまう修行でした。始めのうちは坐禅していますと、平素は感じたこともない、いわゆる煩悩妄想というやつが、次から次に限りなく流れ出てきて苦しくなるものです。これは押さえようとすればする程、却って盛んになる厄介なものです。が、いくら出てきても相手にせず冷厳に見つめていますと、あたかも泣き疲れた赤子が眠りにつくように静かになってくることがわかります。
 これが坐禅の第一の妙徳であり、禅師が唱われている「水と氷の如くにて…云々」の真意もここにあるように解しています。即ち「氷が溶けたら元の水になるように『我』の固まりがほどけたら、生まれながらの『本来佛』の誕生じゃ!いたずらに外に向かって『佛』を求ることなかれ!」と激励されているように思えるのです。
(H9.6月 平林一彦様よりの寄稿)




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