寄稿「白隠禅師」第2号

―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その二)―
 「衆生本来佛なり」この言葉は禅を志す者の、そして佛教全体の根本的教理であり、佛の命でもあります。釈尊の四十九年間にわたる説法も、この「衆生本来佛」という真実の自己を何とかして、私たちに自覚させたいという、慈悲心にほかならないと思います。古人のうたに「佛も元は凡夫なり、吾等も遂には佛なり」というのがありますが、釈尊が修行しておられた頃、つまり凡夫であった頃、六年間難行苦行をされた末、遂に菩提樹の下で悟りを得られたということです。その時の第一声で、「奇なる哉奇なる哉、一切衆生は悉く如来の智慧徳相を具有す」(素晴らしいことだ、人間のみならず一切の存在は、もともとから佛であることがハッキリしたぞ!)と断言されたのです。この釈尊のお言葉は、白隠禅師がこの和讃の冒頭から唱え出された「衆生本来佛なり」と肚の中は同じであると解するのです。「衆生」とは、この宇宙に存在するすべてのものを指しますが、ここでは凡人である私たち人間そのものと思えばよろしいでしょう。
 では「衆生」と呼ばれた私たち人間の様子はどうかと申しますと、例えば丸木橋の上を渡っている猿が、水面に映っている自分の顔を見て、敵に睨まれているように勘違いし、牙をむいて威嚇しているようなものだと思うのです。この猿も独り相撲の威嚇を繰り返しているうちに、遂には猿池地獄に落ちてゆくことは必定です。これと同じように、有りもしないことを自分勝手に有るように作り出して、憎い可愛い、欲しい惜しいと六道輪廻の末、知らず知らずのうちに地獄に堕ちてゆこうとしているのが、「衆生」の姿ではないでしょうか。こうした憐れな私たちを見るに忍びず「衆生本来佛なり」…『今そこで迷い苦しんでいるお前たちよ』と直か付けに呼びかけながら、『釈尊が証明されているように、お前たちはこの世に生を受けた時から煩悩妄想と名付けるものは持ち合わせてはおらんのじゃ。有りもしない煩悩妄想に付き合って、苦労することはあるまい!お前が迷っておろうが、悟っておろうがそのまんまが佛なのじゃ!』と言われるのです。この言葉は私たち凡夫にとっては、まさに青天の霹靂、唖然とするほかはありませんが、釈尊や白隠禅師が申されるのですから、まさか嘘ではありますまい。何はともあれ、この問題を解決することが釈尊の教えを信じて生きている者として、特に禅を志す者にとっては、唯一の報恩の方法であり、そのことが一生を迷界に輪廻するか、逆に御佛と共に安楽の一生を送るかの分かれ道になると言っても過言ではありますまい。では「ほとけ」と言われるような人はどんなお方なのでしょうか。辞典には、偉大なる人とか真理の体験者とか、死んだ人、あるいは柔和な人と書いてあります。またある人は佛の字を解字して「人に非ず」、つまり凡人とも聖人とも見分けのつかない、一切を超越した人とか、もともとから悟っている人などといろいろ説いています。ですが私のような者には「あぁそうですか」というほかはなく、どの説をとってもしっくりいかないものばかりです。
 馬祖道一禅師は弟子の大梅法常が「佛とは一体どんな人ですか」と問うたのに対して「即心即佛」…『今お前が、疑問を疑問として素直に問うているそのまんまが佛じゃ!』と答えておられます。今号の「衆生本来佛」というのも言い方こそ違え、意味は同じだと思います。
 このように釈尊といい、白隠禅師といい歴代の祖師方は簡単に片付けておられますが、私のように煩悩妄想の垢にまみれた者がそうたやすく「我は佛なり」とはゆきません。ここはどうしても「衆生本来佛なり」と断言された白隠禅師の腹の中に踏み込んで「本来佛」なる根源を確かめる必要があります。ところですでにお分かりのように「衆生本来佛」は、衆生の私がこちらにあって、佛という別の人が向こうにあるというのではなく、この五尺の身体の中に佛はおられるということです。しかし現実には物心が付き始めた頃から湧き出した五欲煩悩という霧に今ではすっぽり覆われて、「本来佛」どころか今の自分の姿さえ分からない日常生活を送っている私なのです。そこで佛祖伝来の坐禅という手段で、この五欲煩悩の霧を臍下丹田(下っ腹)に吸い込んで消化してしまおうというのです。

「取ってすぐ足で踏み込む田草かな」私は煩悩妄想を嫌う必要はないと思います。いつかこの煩悩妄想で得た体験が、立派な佛に生まれ変わる時節がある筈ですから…。
 ― 煩悩の炎渦巻く己が身に 佛の住むとう聞くがうれしも ―  (H9.5月 平林一彦様よりの寄稿)




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