寄稿「白隠禅師」第1号

―「白隠禅師坐禅和讃」を読んで (その一)―
 「駿河には過ぎたるものが二つある。一に富士山、二に白隠」という歌がありますように、当時の佛教信者は勿論のこと、白隠禅師が逝去されて二百数十年経た今の人まで、その高徳を富士山と並べ称して敬慕していることはご承知のとおりです。禅師は、道元禅師、一休和尚、良寛和尚と共に傑出した文学者でもあり、多くの教書を残しておられますが、なかでもこれから拝読してゆこうとしているこの「和讃」は、坐禅のあとには必ずいってよいほど唱えられている親しみのある教書です。禅師は今から三百数十年前、静岡県浮島ケ原の杉山氏の子として生まれています。十五の時その村の松蔭寺で得度したあと、諸方の禅寺を訪ねては修行に修行を重ねておられました。24歳の時、英厳寺(性徹和尚)で夜を徹して坐禅しておられて深い無念無想の境地におられたとき、遠くの寺で撞く鐘の音がゴーンと鳴る音を聞きとめられて、たちまち悟りをお開きになったということです。その後、信濃(長野県)飯山の正受老人(慧端禅師)という、とても厳しい人のもとで修行を重ねられるのですが、この正受老人は、白隠が理屈道理の悟りめいたことを一言でもいうと「穴蔵(偽)坊主め!」と、手元の棒をとって叩き出していたので、取りつくしまもなかったということです。
 ある日のこと、いつものように飯山の町を托鉢し、ふと庭掃除をしている老婆のところに立ち寄ったところ「お前のような偽坊主に布施する馬鹿は居らんワイ」といわぬばかりに、竹箒をもって追い出されたのです。その途端、正受老人から叩かされていた棒の意味が分かり、コロリと大悟されたということです。
 こうした厳しい修行の甲斐あって、31歳の春、正受老人から許されて美濃の巖瀧寺に庵を結んでいましたが、その翌年には故郷の松蔭寺の住職となり、そこで多くの名僧(東嶺、遂翁、峨山など三十余名)を育て上げています。この「坐禅和讃」はその頃の円熟した境涯から、坐禅の妙徳を弟子たちに説かれたのであろうと推測するのです。
 「坐禅」とはご存じのように、禅宗の表看板でして、坐禅に始まり坐禅に終わると言っても過言ではありません。そのことが釈尊から歴代の祖師方に脈々と伝えられて今日に至った、釈尊の命であると思うのです。ですから禅寺と呼ばれるお寺では、坐禅を志す人があれば初歩から親切に教えて下さる筈ですから、何はともあれ経験下さることをおすすめします。その時和尚さんか、またはその道の指導に当たる人は、まず脚を組んで座り背筋を真っ直ぐに伸ばして静かに腹式呼吸することを教えて下さることでしょう。教えられたとおり坐禅を続けていますと、今まで気にも止めなかった自分勝手な思念が、どこからともなく次々と湧き出てくることにあなたはお気付きになるはずです。もちろんこうした思念を持ったままでは、坐禅の妨げになるばかりか却って害になることがあります。この問題の解決方法を和尚さんや指導に当たる人に質問するかしないかはあなたの自由ですが、折角この道に志されたのですから、あくまでも謙虚になって教えを請う心のゆとりが欲しいものです。こうして疑問がおこれば教えを請い、教えの上に答えを受けながら、根気よく坐禅を繰り返していますと、言葉では表現する事のできない素晴らしい世界がこの坐禅の中にあることに気付かれることでしょう。
 次の「和讃」とは、「釈尊の教えを誉めたたえる歌」という意味で、ご詠歌というのと同じだと思ってくださればよいでしょう。この和讃は白隠禅師が坐禅修行など、釈尊の教えを不断に実践され、その素晴らしい教えを何とかして後世の人々に伝えたいという念願から、分かり易い文章で、しかも唱えるのに調子のよい七五調をもって佛教の真髄を説き示されたものであると推察するのです。
 さて次号から本文の「衆生本来佛なり」から、「この身即ち佛なり」にわたる三九六文字に迫ってみたいと思いますが、この和讃に限らず、一切の教典の中に説かれていることは、坐禅の当体そのものを説き示されたものと解されますから、今も坐禅を続けておられる方はますますご精進下さることを祈ります。また心ある方でまだ坐禅をなさったことのない人は、まず禅寺を訪ねられてご経験下さることをおすすめします。
― 円窓(円相)の おぼろに向かう 坐禅かな ―
(H9.4月 平林一彦様よりの寄稿)



前号寄稿一覧次号