寄稿「私が頂いた般若心経」第20号

―私が頂いた般若心経(その二十)―
 「故知般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等々呪、能除一切苦、真実不虚」(故に知る、般若波羅蜜多は、是れ大神呪なることを、是れ大明呪なることを、是れ無上呪なることを、是れ無等々呪にして、一切の苦を除き、真実にして虚ならざることを。)
 私たち生あるものは、人間の考えの及ばない偉大なる何者かによって「生かされている」ように思えます。それが神仏だといってもよいでしょうが、とにかくここにこうして生かされていることは確かです。そしてその寿命というものは、自分自身の意志によってロントロールできるものではないことは申すまでもありません。この何者かによって「生かされている」自分であるということを、体験的に自覚することができた時、生老病死という四苦から解放されて、真の安心立命の日常生活があるというのがこの段の主旨です。ここで「般若波羅蜜多の故に〜能く一切の苦を除く」と断言していますように、全身全霊を他の為に施し、自分中心の思いを離れての生活…つまり、一切の苦をそのまんまそのまんまと受け取ることができる人は、私のような凡夫からみれば苦しみとしか見えないものが、その当人にとっては苦とならないと言っています。なぜそうなるかと言えば「般若波羅蜜多」という自分を投げ出した生活態度の、その端的が「呪」であるからだというのです。「呪」といえば一般では、呪殺とか呪文などの言葉に使われているように「のろい」「まじない」という読み方があります。それ故何かしらどろどろとした感じを受けますが、観音菩薩が般若波羅蜜多は「呪」であると断言しておられる上は、そんな凡俗な意味ではないことは申すまでもありません。
 一休和尚は「呪というは諸佛の蜜語なれば、凡夫の識るところに非ず…、佛法の第一義なり」といっておられるところをみると、この「呪」という一字は、「真実である」と解した良いと思うのです。「真実」とは、事実を事実として真向うそのとおり受け取ることのできる心、つまり赤子のような純真な心のことではないでしょうか。私はこの「呪」を何とかして自分のものにしたいという念願から、海徳寺坐禅会に参禅するほか、自宅の一室で毎朝一?香の坐禅を続けています。もちろん私のごとき凡夫が、この絶対なる「呪」の真意を知ることは不可能であることは百も承知の上でのことです。なぜ不可能かといえば「呪」(真実)を知ろうとすること自体、その「呪」から遠去かることになるからです。
 ところが私は、たとえ不可能であってもこの般若心経を唱え、坐禅を組むことによって何かしら心の安らぎを覚えると共に、縁によってここに「生かされている」真実の自分が見えてくるのです。なぜそうなるかと人から問われたとしたら「是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等々呪」と、この心経の不可思議な功力を讃歎しているのと同じことを繰り返すことになるでしょう。
 ところで、この「呪」は、誰でも持ち合わせている本来の智慧から自然に流れ出る働きそのもののことで、この智慧を完成し、「阿耨多羅三藐三菩提」の妙法を得た者なら、日常生活のその時その場の縁に応じて千変万化の「神通力」を発揮し、一切の障りとなるものを破りますから、「能除一切苦」とありますように苦となるものは微塵もないことになります。苦となるものがなければ恐れとなるものもありませんから、立つも坐るも行くも帰るも何をするにも自由自在です。
 このように般若の智慧の神変不可思議な働きを「大神呪」と讃えました。そして苦がないということは楽ということもないことになります。なぜなら、苦は楽を前提として成り立ち、楽は苦を前提として成り立つ、人の心の世界だからです。もちろん地獄極楽、生と死という二見対立するものはない…。あるのはただ即今只今、やるべきことを無心にやっているひたむきな姿がそこにあるだけ。そしてその人の足下に、般若の智慧の大光明が輝いているのが本人には分かっていないが、知る人は思わず合掌せずにはおられない…。この般若の智慧の不可思議な働きを「大明呪」と讃歎したのだ。と解しています。また、この般若の智慧という素晴らしい働きというものは、他に比較するものがありませんから、この境地を極められた観音菩薩はたまらなくなって「是無上呪(この上ない呪なり)」「是無等々呪(比較するものもない呪なり)」と、手を叩き膝を打ちながら讃歎されたのに違いありません。
 ところで私は「神通力をもって一切の障りとなるものを破る」と先に申しましたが、私のいう「神通力」というのは、孫悟空のように空を飛んだり大岩を指先でつまみ上げたりするようなことではありません。何ものにも邪魔されることのない自由自在な働きをする力…、言い替えれば、人間本来に純真な心から自然に出てくる捉われることのない、日常生活そのものを言ったのです。ですからここにも「真実不虚」とありますように、この心経を背負って日常生活を送ることができたならば「あなたは必ずあらゆる苦しみから脱却できるだろう。そうしてこの心経は真実の塊であって、虚妄の言葉ではなかったと合点されることだろう」と言っているように聞こえるのです。
 ― 心とはいかなるものか知らねども 手を合わすれば佛とぞなる ―
(H9.2月 平林一彦様よりの寄稿、その二十一に続きます)


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