寄稿「私が頂いた般若心経」第18号

―私が頂いた般若心経(その十八)―
 「無?礙故、無有恐怖、遠離一切、顛倒夢想、究竟涅槃」(心に?礙なきが故に、恐怖有ること無し。一切の顛倒夢想を、遠離して涅槃を究竟す。)
先号では菩薩の心中を「心無?礙(心にかかる一物もなし)」と吐露していましたが、本号ではその?礙無き底の心の中を更に分かり易く示そうとされているのです。たびたび申し上げますように、釈尊の教えを信じ、日常生活の中で実践すべく懸命な人はみんな菩薩ですから、心の中に何もとらわれとなるものはありません。とらわれるものがなければ、その場その場の一切に任せますから思うこともありません。いらぬ思いがなくなりますと、心にひっかかることがありませんから、「無?礙故、無有恐怖」とありますように、人生に恐怖となることは一切ないことになります。 言い換えれば、鬼と見るのも佛と見るのも、苦とするも楽とするも、己が一心の所現なり、迷えば地獄悟れば極楽、心の置き処によってどうにでもなるということを、百も承知しているのが菩薩でありましょう。良寛和尚はここの処を「死ぬときは死ぬがよろしく候。災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。これ災難を逃れる妙法にて候」と披露しておられます。また、神戸のある歌人は『頂きます 生老病死のフルコース お招きされし わが生を謝して』とも歌っておられます。
 このように、自分全体を大宇宙の生命体の中に投げ出して、その時その場の在り様に随いまして、やるべきことを確実にこなしている人は、他人からみれば災難と思われることも、その本人からみれば災難に遭うているとも思わず、ただその場その場の生命の中に、ひたむきな姿があるだけ…。これ災難を逃れる唯一無二の妙法であり、また生老病死という人生の四苦をあたかも楽しい食事のフルコースと頂くことができるというものではないでしょうか。この境地に立ってはじめて「一切の顛倒夢想を遠離す」とありますように、生きている以上断つことのできない一切の煩悩妄想であっても、夢まぼろしの如し!取るに足らず!と突き放した日常生活ができるのではないでしょうか。
 とは言いましても、これまでの長い生活習慣の中で生まれ、見にしみついた頑固な煩悩妄想です。私のような凡夫にはそう易々と手放すことはできそうにもありません。このような私に対して白隠禅師は「闇路に闇路を踏みそえて、いつか生死を離るべき…」(坐禅和讃)と示されています。即ち、私たちは釈尊の教えに出逢ってはじめて般若の智慧に目覚め、本来「無我」なる真実の自己に突き当たりました。そして、その完成に向かって日夜精進を重ねているわけです。が、時々出てくる憎い・可愛い・欲しい・惜しいという自分中心の思いを突き放し突き放ししているうちに「いつか生死を離るべき」とありますように、いつの間にか「われ」という捉われを「遠離」して、佛教の究極の境地ともいうべき、真の菩薩として生きることができる…と申されているのです。
 この生死の迷界を遠離したところが次の「究竟涅槃」の境界、つまり、三毒五欲、煩悩妄想、あるいはイデオロギーなどの渦巻く現世に生きていて、それに引き廻されることなく、本来の菩薩心が主人公になった安心立命の日常生活がそこにあると思うのです。この「究竟涅槃」という境地を佛教辞典では、「煩悩妄想を滅し尽くした状態」とありますので、ともすれば折角の活き活きとした生命感までも犠牲にした、いわば「有気の死人」のような生活を想像しますが、そうではなく、この涅槃の中にある生命の躍動を観ながらの生活でなければ、死人を造る為の佛教ということになると思うのです。
 ですから「人の人たる」心ある者ならば、誰しも煩悩妄想と呼ばれている一物を忌み嫌わぬ者はおりませんが、その一物がその人の生の証であると同時に、その人の人格であったとみれば、一概に捨て去るわけにはいかないのではないでしょうか。
 結局、この煩悩妄想という一物を人生の肥やしとして「人の人たる」道を生きるか、逆に糸の切れた凧のように、煩悩妄想に引きずられて一生迷い続ける人生を送るかは、その人その人の責任で解決するほかはないと思うのです。
 (H8.12月 平林一彦様よりの寄稿、その十九に続きます)

前号寄稿一覧次号