寄稿「私が頂いた般若心経」第17号

―私が頂いた般若心経(その十七)―
 「菩提薩?、依般若波羅蜜多、故心無?礙」(菩提薩?は、般若波羅蜜多に依るが故に、心に?礙なし)
 「般若心経」は冒頭に「観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時」と説きはじめていましたが、ここでは「観自在菩薩(観音菩薩)」のことを「菩提薩?」と呼び換えて、この者が「般若波羅蜜多に依るが故に…」と、説きだしています。「菩提」とは悟り、「薩?」は悟りを求める為に修業している人のことですから、「菩提薩?」というても他人のことではなく、今、釈尊の教えを信じてひたすらに坐禅や写経、あるいは観音道の清掃などをしておられるそのままのあなた方が「菩提薩?」(菩薩)であるということになります。こうした言い方をしますと、「悟りを開いていないものが菩薩とは…」とためらうお方があるかもしれませんが、白隠禅師も「衆生本来佛なり」と言うておられますように、私達は悟りを開こうが開くまいが生まれた時から本質的に菩薩として出来上がっていると思います。ですから、この菩薩は、先号でも触れましたように全身全霊を投げ出して、まず他の為になる働きをしたいという願望を持っている…、言い替えれば自分中心の考え方を捨てて、社会の為に無欲の責任を果たさなければ生活できないようになっているようです。
 ところで住専問題で揺れ動いた国会もやっと終わりましたが、何かしら割り切れないものを国民に残しました。これらは当事者が当然の仕事として、やるべきことをやらなかったばかりか、財産や地位名誉の保全のために犯した罪をひた隠しに隠していた…、つまり自我意識に覆われていた彼等には、菩薩心としての「無心無欲」の働きができなかったということでしょう。結果的には国民に多大な迷惑をかけたばかりか、自らも牢獄に繋がれる身となりましたが、悪因悪果・善因善果という教理からすれば当然のことといえましょう。ここで私なりに頂いた菩薩の心というものを簡単に確認しておきますと、「菩薩」とは、針で突いたほどの自我意識をも持たない、本来の自己の心に目覚め、更にその心の完成を目指して、寝ても覚めても仕事をしている時も、もちろん写経や坐禅や観音接待をしている時も、今、ここで、やるべきことを着々とこなしている姿そのものであるということです。
 ですから、菩薩といえば観音菩薩とか文殊菩薩などと自分を離れて向こうに立てて拝みがちですが、そうではなく「いま」「あなた」が本来清浄であるところの自己の心、つまり佛心の完成に向けて合掌の日常生活を送っておられるそのものずばりが菩薩のお姿と申せましょう。そして、こうした佛道に対するひたむきな生活の様子そのものが、取りも直さず次の「般若波羅蜜多」と申されている菩薩の無為の働きであるといえましょう。この「般若波羅蜜多」の行といえば、度々申しますように、自分を他の為に投げ出した無心無欲の働きですから、「心無?礙」とここにハッキリ言うておられますように、菩薩心を覆う邪魔者がない。邪魔するものがなければ、順境にあって順境にあることを知らず、逆境にあって逆境にあることを知らず、ただその場その時の縁に応じて自由自在に働いておられるあなた自身のことです。
 こう申しますと「そういうお前はどうなのじゃ?」とやられそうな気がするのですが、ハッキリ言って今まで私が述べてきたことは、私の頭の中にある理想の世界であるかもしれません。しかしお釈迦さまが示された、無二無三のこの道を外れての安心立命の道はないと信じているから、皆さんも一緒に参じてみませんかと、私は申しているのです。
(H8.11月 平林一彦様よりの寄稿、その十八に続きます)

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