寄稿「私が頂いた般若心経」・第16号

―私が頂いた般若心経(その十六)―
「無知亦無得 以無所得故」(智も無く亦た得も無く、所得の無きを以ての故なり)
 この段は先号までの教えを受けて、一切空!と体得した立場から、このことを着々と実践した結果として、自分は気が付いていないがこうなっているという、般若心経の結論とも言えましょう。そしてこの境地に到りますと、釈尊と席を同じうして語り合える場であるといっても過言ではないと思います。この「無知亦無得」は「無智なるが故に得もない」ということですが、この「智」を自分の今の知恵と同じように考えますと、「知恵の無いものは損ばかりして得することはない」という俗の解釈となりますが、そうではありません。私たちは題号のところで「摩訶般若」の四文字を頂きましたが、この摩訶なる般若の智慧は、他人から教えられたものでも与えられたものでもなく、生まれた時から具備している人間本来の智慧であったように、誰でも自然に出てくる働きであると思います。例えば、幼児が道路の真ん中で無心に遊んでいるとき、向こうからオートバイが猛スピードで走って来るのを見つけたら、その時のあなたはどうされますか。もちろん咄嗟に身を挺してその幼児を庇い、救ってやろうとなさるに違いありません。その瞬間のあなたの頭の中には、自分の身の危険とか、利害得失など考えるいとまもない、全く無心無欲の出来事であって、自分の及ばない無意識の行動がそこにあっただけのことであった筈です。この端的が、摩訶なる当体から自然に出てくる「無智」なる経験的智であり、又これが般若の智慧であると私は頂いたのです。
 私たちが時々自分のことを謙遜して使う言葉に「私は無学でして…」というのがありますが、この言葉を佛教的に解釈しますと、学び尽くして学ぶべきことが無くなり、しかも学んだということも忘れ果てた人のことをいいますが、この「無智」ということも、修業に修業を重ねて佛教の教理を徹底血をなし肉となし得た人が、その素振りも見せず、着々と佛の教えを実践している無為の道人のことをいいます。
 このようなすり上がった境地にある人には、自分と他という枠がありませんから、利害損失というような思いもありません。ただ、巡り来る縁に随って今、自分がやるべきことを無心にこなしているだけですから、自分の「得」となる結果を期待する気持ちは毛ひとすじもありません。これが「無得」の「得」とも申しまして、その行為の一つ一つが他人の為になると同時に自分の為にもなっている…、ということだと思うのです。
ところで、日頃私たちが言う「得」というものは、個人が利益を求めて努力した結果が「得」となる場合を指して言いますが、「無得」とは自分をむなしくして社会のため、人々の為に何か役立つことをしたいという菩薩の働きであるといえましょう。
 菩薩といっても他の人のことではなく、誰でもその気になれば「無智」の経験、言い換えれば、自分の働きを他の人の為に振る舞って自分の「所得」としなければ、菩薩行といえると思うのです。こんなことを申しますと「他人の為ばかり考えていては自分の生活が成り立たんじゃないか」という声が戻ってくるような気がしますが、「無得」「無所得」というのは「何もかも人の為に投げ出せ!」というのではなく、相互扶助の関係において「生かし生かされている」自己の存在を自覚して、今の自分がやるべきことを確実にやりなさいということ…。言い換えれば「無知亦無得」は「無心無欲」なる人間本来の働きであり、その結果が「以無所得故」という「無所得の得」を得ると言うことになりましょうか。もう少し分かり易く申しますと、税務署に確定申告をして、それでよろしいとなれば残りの財産は自分が自由に使えばいいということだと受け取ればいいでしょう。まさに般若心経は「無知亦無得 以無所得故」の十文字そのものであり、人間が人間として生きる道を示された教えであるといえましょう。そしてこの十文字を確実に実践しておれば「わしは他人のためになっておらん」と思っていてもどこかで為になっている…。また逆に自分自身も他の人の助けを得て今を生かされている…。例えそう思わなくても、そうなっていると思うのです。
 ――人をのみ渡し渡して己が身は
        終に渡らぬ渡し守かも(詠人不詳)――
(H8.10月 平林一彦様よりの寄稿、その十七に続きます)

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