寄稿「私が頂いた般若心経」第15号

―私が頂いた般若心経(その十五)―
「無苦集滅道」(苦諦・集諦・滅諦・道諦も無し)
 先号で十二因縁に触れたとき、その最初の「無明」とは「一切空」という真理が分かっていないから迷うのであると申しました。それがここにある「苦集滅道」という四つの真理、つまり四諦のことです。
 「苦集」とは、「苦を集めた当体」、つまり「無明」なるが故に生に執着し、老人になることを嫌い、いつの日か必ず訪れる病死から逃れようと迷い苦しんでいる私の姿です。「滅道」とは、お釈迦さまの教えを信じ、着々と実践し修業した結果として、一切の煩悩妄想というものは「元来空なり」と見抜いた悟りの世界です。「苦集滅道」の四諦はあらましこういうことですが、般若心経はこの四諦も十二因縁も般若の知恵から眺めれば「無」であると否定するのです。 ところが、これまでの長い生活習慣の中で身に染み込んだ煩悩妄想というものは、お釈迦さまの言われるようにおいそれと簡単に消し去ることはできません。さきにも申しましたように、人間としてこの世に生を享けたならば、必ず老人となり、目はかすみ耳は聞こえず、手足はなえて思うにまかせず、やたらに他人に当たり散らす。そのうちに病気となり、やがて呼吸が途絶えて永遠の死相を示すことになっております。この至極当たり前の道理を誰一人として知らぬ者はおりませんが、目をそむけて見つめようとしない。特に死ともなれば考えることさえ嫌います。
 道元禅師は「修証義」の冒頭から「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり」と私達がこの生死の苦界から解脱する唯一の方法を示しておられます。これが分かれば人間のみならず全てのものは「縁によって生じ、縁によって滅する底の空体であるから『苦集滅道』といわれるようなものは一切無し!」と言い切られるのですが…。
 所詮凡夫だらだらの私のことですから、死ぬるよりか生きていたい、苦しいよりか楽しくありたい、病気になるよりか健康でありたい、貧乏より金持ちに…などという思いが先に立ち、一切の苦を甘んじて受けるという気持ちには成り切れそうにもありません。こんなくだらない私の顔面に、いきなり「無苦集滅道」の焼火箸!
 ここに至って私は否応無く「生老病死」などの人生のリズムの中に今を生かされている自分に立ち帰らされるのです。そこには「苦集滅道」とか十二因縁とか、あるいは迷いとか悟りなどの理屈通る余地の無い事実のみの世界があるように思うのです。
 良寛和尚は「災難に逢う時は災難に逢うほうがよろしく候」と言うておられますが、まさにそのとおりで、絶対事実としての生老病死など一切の縁を直視した生活をするか、目をそらした逃避の切符を手にするかの二途に分かれると思うのです。
 私も何度か死に直面し、その度に「死を迎えること、太陽を直視するが如くせよ」という言葉を思い出し、それに励まされて苦を乗り切った経験があります。いかに身が焦げ付くような苦しみであっても、その事実を直視しながら今やるべきことを確実にやっておれば必ず苦界を脱却する道が拓けてくるものだと思うのです。
 ――みずからが造りし心の影なるに 苦楽の二途に迷うおろかさ――
(H8.9月 平林一彦様よりの寄稿、その十六に続きます)

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