寄稿「私が頂いた般若心経」第14号

―私が頂いた般若心経(その十四)―
 「無無明亦 無無明尽 乃至無老死亦無老死尽」(無明もなく、亦た無明の尽きるということも、老いて死ぬことも亦た老いさらばえて死に尽きるということも無い)この段は、「一切皆空」という真理の世界に生かし生かされている私達に、人生の安らぎを与えて下さっていると思います。ここに「乃至」とありますのは、「無明」から「老死」に至る十二因縁(無明・行・識・名色・六処・触・受・取・有・生・老死)を省略した言葉です。最初の「無明」は、「一切空」という道理に暗いことをいいます。道理に暗いから迷いの心を起こします。二番目の「行」は、無明なるが故に起こす誤った行為です。この誤った行為を繰り返しているうちに、その妄想妄念を自分であると誤った認識を持つようになる。これが三番目の「識」となります。こうして「無明」から始まった悪習慣は十二因縁最後の「老死」に至るまで苦を嫌い楽を好み、それに執着する心を起こすなど、悪くなる一方の私に対して、「摩訶なる般若の知恵を以ってすれば、一切の煩悩妄想というものは夢まぼろしのようにとりとめのないもので、畢竟空!というよりほかのない代物である。例え五欲煩悩に出食わしたとしても相手にすることなかれ!」と指示してくださるのです。
 白陰禅師は、人間である以上尽き果てることのないこの「無明(煩悩)」について、「紫羅帳裏に真珠を撒く」(わしの目から見れば、この身から出てくる三毒五欲の妄想も、紫の薄い絹に包んだ真珠のように光り輝いておるワイ!)と言うておられますが、そう言われてみますと、私のこの肉団子の中のどこからともなく、憎い可愛い、欲しい惜しいという駄々っ子のような声が聞こえてくるようです。こいつがまた可愛い奴で、いくら騒いでも相手にせずしらんふりをしていますと、いつの間にか静かになるのです。私はこの「無明(煩悩)」という駄々っ子を愛するが余り、そやつの言いなりになって生活してきたのです。そして知らず知らずのうちに無明から老死に至る「十二因縁」の迷界を流転し、無量の苦しみを受けていたのだと思っています。要するに「十二因縁」を認めてそれに乗れば迷いの世界に行く直行列車、その反対に始発駅となる「無明(煩悩)」を相手にせず放っておけば、一瞬にして軽快な人生列車に早替りすると思えばよろしいでしょう。そこで、この列車のどちらかを選ぶかは各人の勝手なのですが、折角お釈迦様が私達が乗るべき列車を指示されておられるのですから、迷わず乗車するのが佛教人としての務めではないでしょうか。その時はじめて「むむみょうやく むむみょうじん ないしむろうし やくむろうしじん…」という、快い列車にリズムに身を任せたまんま、いつの間にか安らぎの世界に行き着くことは間違いありません。
 ところで木魚を…ぼくぼくぼく…叩きながら…「がんじーざいぼーさつ ぎょうしんはんにゃーはらみつたじ…」と唱えていますと、般若心経独特の不思議なリズムの中に引き込まれて、心の安らぎを感じることはありませんか。私は朝夕のお勤めの時に限らず、怠け心が起きそうな時とか、持病が騒ぎ出す時、あるいは楽しい時悲しい時など、ことある毎にこの心経を口づさむのですが、それだけで楽しくなるのです。それはまるで「人生というものは、リズムじゃリズムじゃ」と教えているようです。そうです。「人生はすべてリズム…、生老病死というリズム…、人生はこのリズムから生まれる安らぎである…」と思うのです。

 ――すぼみたるままに散りゆく沙羅の花 終の日この身もかく迎えたし――
(H8.8月 平林一彦様よりの寄稿、その十五に続きます)

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