寄稿「私が頂いた般若心経」第13号

―私が頂いた般若心経(その十三)―
 「無眼界乃至無意識界」(眼界もなく乃至、意識界もなし)これは眼耳鼻舌身意の「六根」と色声香味触法の「六塵」(六境とも言います)を因となし果となして生じる意識の世界、つまり眼耳鼻舌身意の「六識」を省略して言うたもので、この「六根」「六塵」「六識」を総称して十八界と呼んでいるようです。「界」というのは「自分と他のもの区別する界(さかい)」という意味ですが、ここでは煩悩妄想の原因となるところと捉えた方が分り易いと思います。
 先号でも触れておきましたが、私達は「眼」においては「色」(形あるもの)を見、「耳」にあっては音や「声」を聞き、「鼻」では「香」をかぎ、「舌」では「味」を知り、「身」では寒さ暑さなどを「感触」します。これらの「眼耳鼻舌身」の五官を仲介として受け入れた「色声香味触」を「意識」することによって、日常生活そのものでもあるところの一切の「法」を生じることとなります。この様子を「眼根」に例えてみますと、「椿の花」という時、そこに椿の花という存在がなければなりません。これが「六塵(六境)」であり、そして「椿の花」を見るという眼がなければ椿の花という存在は無い…。これが「六根」です。更にその椿の花が赤色だとしますと、赤と認識するところがある筈です。これが「六識」です。
 このように私達が日常生活の中で体験している世界を細かく説いてありますが、この十八界をひっくるめて「心」と私達は呼んでいます。この心のことを弘法大師は「近くして見難きは心なり、心広うして大なり」と言われていますように、これほど身近なものはないのに、見ることも掴まえることもできないのが私達の心です。
 その得体の知れない心が、宇宙の果てまで限りなく識別する働きをしていると思えば驚くほかはありません。
 最近のニュースで百武さんという天体観察愛好者が、新彗星を発見されたと報じていましたが素晴しいことです。ところが百武さんが見た彗星は、天体望遠鏡をとおして眼に映した限りの彗星であって、それを科学者がいかに専門的知識を駆使して説明したとしても、それは科学的な仮定の上に組み立てられた学説であり、彗星の体質、彗星の実体そのものではないと思うのです。
 このように私達の肉体にくっついている眼耳鼻舌身意というものの才能というものには一定の限界がある…。つまり真実の世界にはどんな高度な知識をもってしても迫ることはできない…。むしろ迫ろうとすればするほど遠ざかってゆくように思えます。
 畢竟、十八界という私達の心で物を説明するには限界がある。知識をもって踏み込めない世界がある。 それはともかく、私に眼耳鼻舌身意という六根が完全に備わっていても、その向こうに立つ色声香味触法という六境がなければ、六根の働きはなく、逆に私のように耳が遠い者には大きな音があっても聞くことが出来ないのだから、六境の中の「声境」は「無」であります。
 もう少し人間という根元にさかのぼって考えてみますと、この私という存在は、父母という縁によってこの世にこうして在る…。もしこうした縁が無ければ父母も私も無いということになります。更に私のこの生命は、樹木の緑が吐き出す酸素を吸うことによって生命を保ち、樹木もまた私が吐き出す炭素を吸ってその緑を保っています。これは樹木に限らずこの世に存在するすべてのものが、他のものとの助け合いに依って「生かし生かされている」ということでしょう。
 してみると、人間を含め宇宙に存在している一切のものは、他のものに左右されやすく、今ここでこうしている私の生命も死という縁に逢えば、夜半の嵐に散りゆく桜のように無に帰ってしまいます。これは人間を含めた一切の存在というものに、これという固定した実体が無いからで、縁によってはどうにでもなる自由性をもっているからではないでしょうか。
 このように一切の存在は、他のあらゆる縁に接し、お互いに相助け「生かし生かされている」のであって、一個だけでは存在し得ないようになっているように思えます。つまり「無眼界乃至無意識界」とありますように、一切万物は「空」なるが故に「無」…。ただ「相互に助け合いながら生かし生かされているのみの存在である」と悟ることが「空」であり「無」の境地であると思うのです。

 ――三界をふところにして生きる身に
             自他の界を知る由もなし――

――初花に逢うて過ぎゆく刻知らず――

(H8.7月 平林一彦様よりの寄稿、その十四に続きます)

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