寄稿「私が頂いた般若心経」第12号

―私が頂いた般若心経(その十二)―
 「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」― (眼耳鼻舌身意という“六根”も無く、色声香味触法という“六塵”も無し。)この十四字を評して古人が「現実に眼があるから色が見え、耳があるから声を聞いているのになぜ無いというのか…」と言われたということですが、この段もまた理屈道理をもって解けるところではないようにみえます。
 釈尊の教えは、今ここでこうしている私の存在と、私を取りまく一切の環境との関係…、つまり眼に例えていうと、見る私と見られるもの、耳については聞く私と聞かれるものの真実の関係を解き明かし、迷うこともないのに迷い、苦しむこともないのに苦しんでいる私に対して、大慈大悲の手を差し伸べて下さっているように拝見するのです。
 さて、この「眼耳鼻舌身意」にそれぞれ“根”の一字を付けて“六根”と呼んでいますが、これは「眼耳鼻舌身意」が草木の根のようなものである…ということでしょう。草や木は根があるから春になれば芽が出、夏になれば葉が茂り、秋になれば紅葉となって四季を綾なしながら存在しています。それと同じように私達の「眼根」も目前の色を見分け、「耳根」にあっては音や声を聞き分けるなど、「鼻舌身」も同じようにそれぞれよく「意識」します。「意識」するということは、その意識が生まれ出る根源がある筈です。これを“根”に例えたのだと思います。
 この“六根”はその向こうに立つ“六塵”、つまり「色声香味触法」を意識することによって、好き嫌い、憎い可愛い、欲しい惜しいという思いがどこからともなく湧き出てきます。そして時には放っておくと蜂の巣を突いたようになって、収拾がつかなくなることがあります。なぜそうなるかといいますと、本来無いものを有るものとして自分勝手に取り扱おうとする気配があるからです。
 今、私の机の上の花瓶に一輪の椿の花(侘助)を挿していますが、私はその清楚な姿が好きで近所の人にお願いして貰って来たものです。例えばこれを見たある友人が、椿の花は首から落ちるから嫌いだと言ったとしましょう。ところが椿そのものには“好き”だとか“嫌い”だとか“不吉”などの花は咲いておりません。ただ無心に咲き無心に落ちてゆく椿の花である筈です。この事実に対して私は“好き嫌い”“美しい汚い”“吉不幸”などと自分勝手な世界を造り、取捨選択しては「塵」を吹き掛けていりのみならず、その「塵」は却って自分に降りかかり、「眼耳鼻舌身意も無く、色声香味触法も無し」という真実の在り方が見えなくなって、迷いの世界を輪廻しているのだ…と思うのです。ここの処は「まだ見ぬ前、まだ聞かぬ前の真実の自分を知る」というか、“六根”とその向こうに立つ“六塵”の対立が無い本来の自分を自覚し、着々と実践しておられるお方でないと、この「無眼耳鼻舌身意、無色声香味触法」の境地は覗き見すらできないでしょう。 ところで私達は見聞覚知するすべての対象を、とかく自分の考えという枠にはめ込んで、自由に扱いたいという習性があるように見えます。例えば道の向こう側で私を見ながら、何やら話している二人が居るとしますと、私はその様子を見てすぐ「私の悪口を言うておる」という自分勝手な思いの枠を作り、自らその窮屈な世界で苦しんでいるように思うのです。
 菩薩はこんな愚かな私に「大宇宙に目鼻を付けたような大人物であるお前が、そんなチッポケな枠に入るわけがない。摩訶なる般若の智慧は誰が持ち物ぞ!六根六塵とともに“無ウ”と決定せよ。」とお示し下さるのです。
――松風に “無”の道問えば 颯々と
               只そうそうと 吹き渡るのみ――
(H8.6月 平林一彦様よりの寄稿、その十三に続きます)

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