寄稿「私が頂いた般若心経」第11号

―私が頂いた般若心経(その十一)―
 「是故空中、無色、無受想行識」― (是の故に空中に色は無く、受想行識も無し)−深遠なる般若の知恵をもって“五蘊皆空”と見抜かれた観自在菩薩は、一切の苦から解脱されたことを受けて、前号で見ました様に“是諸法空相 不生不滅 不垢不浄 不増不減”と説いてこられました。ここは重要なところですからもう一度参じて見ますと…“五蘊皆空”という立場から眺めまわせば、今ここに有ると思っている“色”(形あるもの)は実体というものはなく、有って無いようなものである…ということでした。
 例えば私という形あるこの身体を“われ”であり、“我がもの”と思っていますが、実は私以外のあらゆる縁に接し、“お互いに相助け生かし生かされている”ことによって、はじめてこの身体がここに存在している…、つまり私一人では存在し得ない“空”体である…。そしてこの“空”体なる身体が、自分以外のこれまた“空”なるあらゆる縁に逢うことによってはじめて“わたくし”という存在があるのであって、決して生まれたときから私というものが在ったわけではないのです。そしてまた、この形ある身体は“不生不滅、不垢不浄、不増不減”であって、一切の二見を超越した当体であるから、百万言をもっても説けるものではないばかりか、言えば言うほど遠ざかるばかりですが、危険を承知の上であえて迫ってみましょう。
 例えば、人の心は本来汚れの無い明鏡のように澄み切ったものでした。ですからこの鏡は、縁に応じて来る物をそのまんま映し取りますが、鏡の当体そのものに生じた滅したという沙汰はなく、ただ映し、ただ消え去るだけ…(不生不滅)。またその鏡は、馬糞が映ろうが黄金が映ろうが、汚れもしないし浄らかになることもない…ただ馬糞は馬糞のまんま、黄金は黄金のまんま映しているだけ(不垢不浄)。更にまたこの明鏡は、前に来る物は好き嫌いなく映し取りますが、この点が不足しているから増してやろうとか、ここが多いから減らしてやろうなどとは思いません。ただ美しいものは美しいままに、醜いものは醜いままに、無心に映しているだけ…(不増不減)。
 ここから本号の「是の故に空中に色無く」と続きます。即ち“今ここに斬く在り”と思っている肉塊を含めて一切の存在は、一時も休むことなく変化して、果ては宇宙の生命体の中に消えてゆく無常なものであって、有って無いようなもの…。暈竟“空!”と決定せよ、と繰り返し説かれているのです。そしてこの「是故空中無色」の六文字こそ、佛道修行者として喉から手がでるほど欲している境界でして、簡単に手に入らないところだと思うのです。このように色や形が有る一切の物は、それ自体“空”そのものであるということになれば、これまでのように外部からの影響を受けることがありませんから当然「受想行識も無し」ということになります。「無い」といいましても死人のように何にも心の働きが無くなることではありません。やはり寒い時は寒いと思うし、苦しい時は苦しいと感じますが、菩薩の申される“五蘊皆空”“無色無受想行識”を骨髄に徹して頂いた佛教信者なら、こんな他愛もない自我意識に引き廻されて、自らが迷い苦しむことが無いだけのことです。
 白隠禅師はここで「“われ”と意識する心を分析してみれば“受想行識”の四つに分かれ、それを含む肉体を加えて“人”と名付けただけのことじゃ。その依るべもない“われ”という仮の名が、見たり聞いたりするところの一切のものは、この“受想行識”の影法師にすぎぬ!こんな有名無実なものに惑わされるでないぞ!」と申されております。そう言われてみますと、私の身内のどこかで、憎い可愛い欲しい惜しいと動いているものがあるようです。これを止めようとすれば、ますます動きがひどくなる厄介なこの代物…。しばらくこれを相手にしないでおくと、いつの間にか消えている駄々っ子のような奴…。“畢竟空”なる代物であるが故に手に負えないものなら、相手にしないで放っとくよりほかはないと思うのです。

      ――有る無しは 人の心の迷いなり
                 とくと調べよ 虹のありかを――

(H8.5月 平林一彦様よりの寄稿、その十二に続きます)

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