寄稿「私が頂いた般若心経」第10号

―私が頂いた般若心経(その十)―
「舎利子、是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減」― これが今回の参究課題となります。
 観自在菩薩はここでもまた“舎利子よ”と親しく呼びかけながら、心経の中心となる「五蘊皆空」について更に詳しく示そうとされるのです。先号では、五蘊の中の色蘊を取り上げて、この肉身を含め一切の形あるものは、元来空という形のないところから生じ、泡ぶくのように滅する無常なものであるから、今ここに有る様に見えるけれども、実は名称だけの実体のない夢のような存在である。そのような取り得もない存在であるこの身を我と認めて執着し愛するが故に、却って四苦八苦となって自分に跳ね返るのであるから、ここのところは暈竟「五蘊皆空」と決定せよ!と示されたのでした。そして今“是れ諸法の空相にして…”と説き出されるのです。「是」とは、私達日常生活の一つ一つを指された言葉でしょう。この日常生活というものは、全て先の“色受想行識”という“五蘊”から流れ出る心の働きが私達の表面に現れたもので、これを「諸法」と呼んでいますが、この一切の「諸法」は、己の影法師のようなものであり、暈竟“空相(空の姿)”なりと決定すれば、この娑婆の四苦八苦も有って無いようなものである…と示されているのです。ここで「五蘊皆空」をもう一度見てみます。例えば真夜中に突然電話のベルが鳴ったとしましょう。私はその音を胸に“受”けてふと不吉な“想い”にかられながら、電話機のある所まで“行”きます。そして、受話器を取って聞いた話の内容は、父死す…の訃報だったとしますと、私は悲しみと日頃の親不孝の呵責の“意識”に苦しむことでしょう。そしてその後の私は、父の面影を抱き続けながら、報恩と懺悔の供養の日々を送ることになったとします。さてこの私の一連の動きの中に“色受想行識”と名付けるものがあったでしょうか?もしあるとしたら念仏合掌の“一心”だけでほかには何もありません。つまり“五蘊皆空”とは、その時その時の“一心三味”の端的であると思うのです。
 このように私達の日常生活はその場その場の縁に応じて無心に働いていますし、そうでないと生活できない仕組みになっている…、その様子はあたかも春という縁に逢えば無心に桜の花が咲き、夏という縁に逢えば、葉桜と変化し、秋が訪れると無心に葉が散ってゆくように、私達の日常生活も縁に応じて千変万化の無心な働きをしておると思うのです。そして、その因縁というものは、生じたということも、消え去るということもありません。只“受想行識”の働きによって、苦は苦、楽は楽、生は生、死は死として、いかにも有るように思わせているだけ…、そして今有ると思っているのも束の間、夢幻の様に消えて行く…、暈竟「諸法空相」というほかはありません。
 空相であるが故に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とありますように、生じたでもない、滅するでもない、汚れているということも、清らかであるということも、ここが足らないから増やしてやろうということも、多いから減らしてやろうということもない…、只今見たまんま聞くまんま、雀はチュンチュン烏はカアカア、生は生、死は死、苦は苦、楽は楽と、自分の心の放影がそこに有るに過ぎません。
古人の歌に“色も香も空しきものと教えずば、有りを有りとや思い果てまじ”というのがありましたが、もしこの心経に出会うことがなかったら一生涯、生死と苦楽の迷界を輪廻して、遂に“空”の世界を知らずに終わっていたことでしょう。

 ――苦も楽も おのが心の影ならば
                厭うべきもの 一つとてなし――

(H8.4月 平林一彦様よりの寄稿、その十一に続きます)

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