寄稿「私が頂いた般若心経」第9号

―私が頂いた般若心経(その九)―
 私は、これまで世界中の苦労を自分ひとりで背負っているような気がすることがたびたびありましたが、前号の「五蘊皆空と照見すれば、一切の苦厄は度せられる。」というお示しを頂き、そしてその苦厄の出処を究めてみてはじめて、よくもまあこれまでやっちもないことに、くよくよして生きてきたものだと自分ながら恥ずかしく思うのです。
 本号からいよいよ、観自在菩薩が舎利子を呼び出しての、一対一の説法が始まるのです。−「舎利子、色不異空、空不異色、色即是空、空即是色、受想行識亦復如是」―(舎利子、色は色と異ならず、空は空と異ならず、色は即ち是れ空、空は即ち是れ色、受想行識も亦たまた是の如し)この「舎利子」は、釈尊十大弟子の一人ですが、今こうしてこの心経に参じている私たちも釈尊の弟子ですから、「舎利子よ!」と慈愛に充ちたお呼びかけの中に“他人ごとではないぞ!ようく聞きなされ!”と、注意を与えて下さっているように思うのです。そして観自在菩薩は、さきに「五蘊皆空」と示された立場から、五蘊の内の色蘊の一つをあげて「色は空と異ならず、空は色と異ならず」…暈竟空であると説き出されるのです。「色」とは、先号で見ましたように、地水火風の四つが寄り集まって出来上がっている仮の姿です。言い換えれば、大地と水分と太陽と空気の四つの恵みによって存在する、形ある一切のものをいったもので、形があれば当然様々な色が目に映りますから“色”といったのでしょう。
 そして色と形あるものは、昔からここにあるということだけではなく、ある因縁によって生じた…、つまり元来空の形のないところから生まれたのであると説かれるのです。私が今こうして我だと思っているこの肉身だって、両親があって、その又両親が…と、過去の因縁をたどってゆくと暈竟空!に帰ってしまいます。だから私達の目で見える形ある一切の存在は、空と異ならない…、全部空であるというのです。空だといいましても何も無いということではなく、ある因縁によって生じた一時的な影を持ったものが在るという意味でしょう。この一時的な影を、一時的に我だと思って生を貪り、死を恐れて苦しみながら、生死の迷界をのたうち廻っていた私だったわけです。
 この様子を見られた釈尊は、あわれみの余り「色は空と異ならず、空は色と異ならず」と、慈愛のお言葉をかけて下さるのです。釈尊はこのように親切に示して下さっているのですが、実際のところ私のような凡夫には分ったようで分からない…、空だからお前の体を頼りにするな!と言われても、自分を中心とした長い生活習慣から、憎い、可愛い、欲しい、惜しいという執着が出て来て、ついこの肉体を頼りにしたくなるのです。ここの処は分らぬなら分らぬままに此の身を佛のあなたにお任せ申して、心を用いず肩に力を入れず、今やるべきことを着実にやってゆくほかはないと思うのです。そしてその当体がそのまま、次に示されている「色即是空、空即是色」…、つまり色と空は同じでもなければ別のでもないという、この事実は理屈道理では説明することはできないと思います。暈竟この色と空の関係について、分ったとか悟ったなどで届く境地ではないのですから、こんな難しいことは頭の中から消してしまって、“無限に流れ移りゆく大自然の場にこの身を投げ入れ、今自分が置かれている境遇を受け入れて、そのままそのままの生活をさせて頂くことだ”と決定すればスッキリしませんか。そして「受想行識」から流れ出る自己中心の思いを、真っ向このとおりと受け止めて相手にしないならば、春の野辺に立つ陽炎のように根拠のない、夢まぼろしの去って行くものだなーと気が付いた時、今まで此の身を我だと信じてその我を愛するが余り、出処もわからない五欲煩悩にこき使われていた今までの自分というものが、情けなくなるのです。
 世尊はこのような私に対して、「受想行識亦復如是」…(お前が今、自分だと信じているその体を含め、一切の形あるものは暈竟空に帰するもので、海中の泡のようなものじゃ!その当体から流れて止まない煩悩妄想もまた、有って無いようなもの…。ほっとけ!ほっとけ!暈竟一切空と呑み込むべし!)とお示し下さったのです。


――置く草の色に染りて 露の玉 色即是空 空即是色――


――何時の日か お返し申す 露の身に

我と名付ける一物もなし――


(H8.3月 平林一彦様よりの寄稿、その十につづきます)

前号寄稿一覧次号