寄稿「私が頂いた般若心経」第8号

―私が頂いた般若心経(その八)―
 今回は、「照見五蘊皆空(五蘊は皆空と照見す)です。
 この六文字は、観自在菩薩が般若の深い知恵を以って、生死の迷いの世界から生死を超越した悟りの世界に到る修行の様子です。「五蘊」とは、私たちが今こうしているこの身を我だと思わしめている心という代物が実は“色受想行識”という取り得もない五つの寄り集まったものであると、見抜いた端的であると思います。そして、この五蘊の一つ“色”とは、人間という存在を含めて一切の色と形のあるものは、地(大地)、水(水分)、火(太陽)、風(空気)という四つの恵みによって生かされているものであって、どれ一つ欠けても存在し得ない…、言い換えれば、私たち一切のものは、この地水火風が寄り集まった仮の姿であるということだと思います。
 次の“受想行識”の四つは、この仮の身を操っている心の働きでしょう。例えば日常生活の中の事につけても、これは苦しいこと、これは楽しいことなどと分別していますが、これが“識”のなすわざで、この分別することによって苦は苦なり、楽は楽なりと心に受け止めることを“受”と申しています。そして、また苦につけても楽につけても、思い煩ったり、うきうきして止まらないことがありますが、これを“想”と呼んでいます。
 そして更にこの“想い”というものは、想いが想いを生んで蜂の巣を突いたようになり、収集がつかなくなることがあります。そして、遂には苦しさの余り死を選んだり、楽しさの余り有頂天になって、身を破滅に導いたりした例が多くありますが、この行動を“行”と呼んでいます。このように私が頼りにしていたこの身は、地水火風が仮に和合している姿であったわけです。そしてその仮の身を我が身であると信じ込んでこれまで生きてきた…。だから私は、私の身を愛するが故に、苦しいことを嫌い、楽しいことのみを追い求めて、憎い、可愛い、欲しい、惜しい…と、七転八倒の迷いの世界を輪廻していたのでした。
 こうした憐れな私に対して、「五蘊皆空」と、観自在菩薩は示して下さったのです。そしてこの四文字は私にとって晴天の霹靂…、脳天を叩き割られたような凄いお言葉であると思うのです。
 ここで思い出すのは二祖慧可大師と達磨大師の因縁です。慧可大師は若い頃から漢字や仏典を学んでおられたのですが、どうしても心の不安から離れることができませんでした。そこで少林寺に達磨大師を訪ねて「どうか不安を取り除いて下さい」と切々とお願いしたのです。すると達磨大師は「ではその不安という心を持って来い」と申されたのです。もし不安という心を持ち出すことができれば、それを取り除いて安心を与えてやろう、というお言葉のように見えますが、果たして“これでございます”と出すことができるものでしょうか。不安という心は確かにありますが、“これが不安という心です”と持ち出せる代物ではないことは誰でも分かることです。この得体の知れない心という代物に愚かな私はこき使われ、自ら作った苦の世界にあえいでいたのです。
 このように「五蘊」を根源として流れ出る私たちの苦楽というものは、己の影法師のようなもので、有って無いようなもの…。ここで全身全霊、畢竟「皆空」と受け取ることができればこの娑婆の四苦八苦も夢をみているようなもの…。そうなればはじめて次の「度一切苦厄」とありますように、一切の苦厄から離れることができると、示して下さったのです。

 ――この身をば 本来空と知りぬれば
                 苦楽の塵の付くはずもなし――

(H8.2月 平林一彦様よりの寄稿、その九につづきます)


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