寄稿「私が頂いた般若心経」第6号

―私が頂いた般若心経(その六)―
 今回からいよいよ本文に入ることになりますが、この二六二字は、これまでみてきた『摩訶般若波羅密多心経』の十字を土台として説かれていますので、たびたび申しますように、この大自然の運行の中で現実に今こうして、大自然と共に生活している大いなる自分を差し置いて、文章の上だけで“般若の智慧”を探し求めても無駄骨だと思います。なぜならば、般若心経の全体は、私たち一人一人の本質を問うているからです。
 さて、この度は、本文の冒頭にある「観自在菩薩」とはどんなお方で、どこに居られるかを問題としてみたいと思います。
この「観自在菩薩」は“般若の智慧”に目覚め、何とかして世の為人の為になりたいという願心を持っておられ、それを着々と実践しておられるお方です。では、そういう尊いお方はどこにおられるかということになりますが、その居場所を示した好例がありますから紹介してみましょう。
 ある日「観自在」という菩薩が、補陀洛山で多くの人々を集めて説法をしておられました。その「観自在菩薩」が一人の修行者に「あなたは何を求めてこの山中を歩き廻っているのですか」と尋ねますと、その修行者は「この補陀洛山のどこかに、観自在菩薩という尊いお方が住んでおられるという噂を聞いたので、私の苦悩を解いて頂こうとして探し廻っておるのです」と答えました。そこで観自在菩薩は衿を正しながら…「修行者よ。お前さんがこの山中をいくら探し廻っても骨折り損のくたびれ儲けというものじゃ。もしお前さんがどうしてもその菩薩に教えを請いたいというのなら、その居場所を教えて進ぜよう…」暫く無言でおられましたが、じっと修行者を見詰めながら…「私の前に座ってござるぞ!」と示されたということです。つまり、生来の般若の智慧に目覚め、世尊の願心であるところの衆生済度(人の為になろう)という大心を持っている人なら、誰でも菩薩に成り得るということです。
 この海徳寺でも、毎月十七・十八日の観音の日になりますと、多くの「観自在菩薩」の方々が、お参りの方々に接待されているお姿を拝見することができます。この菩薩は、本来煩悩妄想の汚れ一点もない心の鏡の持ち主ですから、目前にあるすべてのものを、大底は大、小底は小、柳は緑、花は紅と、そのものの姿をそのまんま映し取って絶対に間違うことはありません。この様子を「観自在」…、つまり事実を事実として確実に、しかも自由自在に観ることができるのが人間本来の在り方であるというのです。
 ところが、私達は長い習慣から、この事実に対して自分の考えをもって左右しようとしますので、抜き差しならぬ迷路に入り込んで自らが苦しむことになるのではないでしょうか。つまり私達の心の中に、我を中心とした考えがありますから、それが邪魔をして事実を事実として受け取ることが出来ないのだと思うのです。したがって私達一人一人が、この大自然の中で生活しているという事実は、自分の考えをもって生活しているのではなく、お互いに助け合っているからこそ生活している…と云えるのではないでしょうか。
 助け合うということは、先ず他人のことを優先した考えのことであり、他人のことを優先するということは、自分を空しゅうして人の為に尽くすということでしょう。これが実践できる人は、自我という曇りがありませんから、事実をそのままに受け取ります。つまり「観自在」にその事実を見抜いてそれに応じた働きを、その場その場でチャンチャンとやります。これが菩薩であると思うのです。

―「菩薩」とは自己を空した心なり。
       心なければ誰も「観自在」なり。他に求むべからず。―

※注、本文にあります観音日は現在は行っておりません。
(H7.12月 平林一彦様よりの寄稿、第7号につづきます)


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