寄稿「私が頂いた般若心経」第5号

―私が頂いた般若心経(その五)―
 私たちが、人間として此の世に生を享けた以上、生老病死という苦から逃れることはできません。どうせ逃れることができないのなら、ドカンとその苦しみの中に大アグラを書いて、夫は夫として妻は妻として、老人は老人として、病人は病人として、即今只今自分が置かれている足元のことをチャンチャンと片付けてみたらどうでしょうか。そこには苦とか楽とか名付けるものは無いと思うのです。とは言うものの死ともなれば人生の一大事…、これほど痛切なものはありません。これをどう片付けるか!口先だけで生死一如とか、生は生にまかせ死は死にまかせるだけ…などと呑気にかまえておられるご仁であっても、はたしてその通りに死を迎えることができるかどうか…。道元禅師も修証義の冒頭から「生を明らめ死を明らむるは佛家一大事の因縁なり。生死の中に佛あれば生死なし」と、佛教信者としての道をお示しになっていますように、どうしても避けては通れない問題です。この生死の問題を解決して、真の大安心を得るためには、誰しもが生まれた時から持ち合わせている般若の智慧に目覚め、日常生活の中で実践するほかに方法はないことは、申すまでもありません。この肝心かなめの処を『摩訶般若波羅密多心経』という十字をもって示されていると思うのです。
 さて今回のテーマは「心経」の二字です。ここで問題なのは“心”の一字です。一般に何気なく使っている“心”という言葉ですが、これほど身近くて得体の知れない代物が他にあるでしょうか?もしお分かりの方があればご教示願いたいと思います。恐らく答え得る人は無いでしょう。私たちはこの掴みどころのない物を名付けて“こころ”と呼びながら、いかにも実在するかのように思い込んで、その物から取り止めもなく出て来る、憎い・可愛い・欲しい・惜しいという世界を自分で作り、その中で自分が迷い苦しんでいるのではないでしょうか。この問題はどうしても“摩訶”なる“般若”の智慧に目覚めて、心を心とするべきものなし!と、体験的な確信を得るほかに解決方法はないと思うのです。
 次の「経」というのは、桟織の縦糸のことです。この縦糸は織物の表面には出ていませんが、横糸が織り出す色によってその模様が表に現れますように、私達は知らず知らずして大自然の摂理という縦糸に、般若の智慧という横糸をもって、春は植え夏は草取り秋は取り入れ、あるいは、暑ければ脱ぎ寒ければ重ね着をするなどと、その大自然の運行と共にその人なりの人生模様を織り出していると思うのです。そういう意味からしてこの「心経」の二字は、肝心かなめの処であると指示されているようにも見えます。こう頂きますと、この『摩訶般若波羅密多心経』の十字が本当に血となり肉となり骨髄に徹したならば、本文二六二文字は却って自分そのものであると言うても過言ではないと思います。ここに到りますと、日常生活の立居振舞いが佛作佛行となり、極楽浄土に住ませて頂いていることに感謝、合掌せずにはおれないのではないでしょうか。

     ―流れ去る波の間に間に身を委ね
                滝に落ちゆく花のひとひら―

(H7.11月 平林一彦様よりの寄稿、第6号につづきます)


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