寄稿「私が頂いた般若心経」第3号

―私が頂いた般若心経(その三)―

 前号では、私たちひとりひとりが、大宇宙に目鼻をつけたような偉大なる存在であったことを知りました。
 では、その大人物が具えている知慧とはどんなものかということになりますが、これが本号の問題です。
 さて心経では、この知慧を「般若」と唱えています。でもこの知慧は、私たちが一般に言うている知恵とはどうも違っているようです。どこが違うかといえば、我々が思っている知恵は、後天的知識から生まれたものですが、般若という知慧は、生まれた時から持ち合わせている先天的な知慧であると思います。
 例えば、生まれたばかりの赤子に母親の母乳をさわらせますと、磁石に吸い付けられるように唇を寄せてチュッチュッとやります。又、生まれて数ヵ月しか経っていない赤子をプールに入れてやると犬かきで立派に泳ぐそうです。
 こうした知慧は、誰に教えられたものでもないことは申すまでもありません。
 このように私達人間は、生まれた時から、その場その場の環境にうまく適応する知慧の持ち主であったようですが成長するにつれて外部からいろんな知識を吸収して、我というものを意識するようになったのだと思います。
 すると当然のように、自分を中心とした欲望の心を起こし、憎い、可愛い、欲しい、惜しいという迷いの世界を自分で作り、自分がその中でもがき苦しんでいるのが、私達凡夫の現実ではないでしょうか。そして、自分を省みることをせず何とかしてその世界から逃げようとしてバタバタやっている……。なんとも情けない私であったことやら……。
 心経では、このような愚かで罪深き私を、何とかして救ってやろうとして「お前が、本来具有している摩訶なる般若の知慧に目覚めよ!」と手を差しのべて下さったのです。
 ところでこの般若の知慧だけは、他人から与えられるものではありますまいが、例えて申しますと、磨き抜かれた宇宙大の鏡のようなものだと思うのです。

 ―あるがまんまに受け取る知慧―

 御存じのように鏡というものは、その前に柳があれば「柳は緑」とそのままを映し、花があれば「花は紅」とそのまんまをそっくり映し取りますが、鏡の本体は、柳を柳とも、花を花とも思っていないでしょう。それと同じように、私達が、本来具有している般若の知慧が、この鏡だとしますと、生は生と受取り、死は死と受取り、苦楽ともに、そっくりそのまんまを受取ることになります。
 そしてしかも、生死の中に在って生死とも思わず、苦楽の真っ只中にありながら苦楽とも思わないはずです。
 こうしたあり方が、本当の自分であったのかと目覚めてさせて頂いたとき、“目が覚めてみれば恥ずかし寝小便”で、自分が垂れ流した生死苦楽の迷界で、のた打ち廻っていたことを恥ずかしく思うのと同時に、方々出世の祖師方の大慈大非のご恩はもちろんのこと、老師や諸先輩のお導き下さったことに感謝せずには、おれないのです。合掌
(次号では「波羅密多」の四文字に迫ることとします。)

(H7.8月 平林一彦様よりの寄稿、第4号につづきます)

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