寄稿「私が頂いた般若心経」第2号

―私が頂いた般若心経―(その二)

 第一号では、日常生活をはなれての心経はあり得ないという意味のことを申しましたが、本号から、心経の一字一字を味わってみましょう。
 まず心経を拝読して気が付くことは本文二六二字の中に「空」の字が七つ「無」の字が二一「不」の字が七つとまさにないない尽くしであることです。
これについては本文で触れることとして、次に気付くのは、「無眼耳鼻舌身意」とか、「無色声香味触法」などと、私達の本質を直接に指していることです。こうしてみますと、この心経は、今こうして生きている私達の、その場その場の事を問うているように思うのです。従ってこのお経の真意を本当に理解して、日常の生活の中に活用する為には、今こうしている自分の足下を忘れてはならないということになります。
 さて、本題に戻りまして、経題の「摩訶」の二字に迫ってみることにしましょう。

―宇宙大なる自己―
 先号で申しましたように、「摩訶」とは偉大であり、勝れているということです。では私達人間のどこが偉大で、何が勝れているというのでしょうか?
 お釈迦さまがお生まれになったとき、右手で天を指し、左手で地を指して「天上天下唯我独尊」(私はこの大宇宙の何ものとも比較できないほど偉大であり尊いものである)と、唱えられたと伝えられています。この真偽は別として、私達と同じ人間である筈のお釈迦さまだけが、なぜ尊いというのでしょうか。それともお釈迦さまは、「お前達も私と同じように天上天下唯我独尊であるぞ」と教えておられるのでしょうか。これが分かれば心経は、全部自分の持ち物として日常生活の立居振舞いの中にあると申しても過言ではありません。
 さて私達は、春夏秋冬という大自然の移ろいの中にあって、その時節に順応し暑ければ脱ぎ、寒ければ衣を重ね、あるいは春は植え、夏は草取り秋は取り入れなどと、自由自在に生活しています。言い換えると、人間という生物はこの大自然をうまく操って生きていると言うことができます。
 こう考えてみますと、私達一人一人はその置かれたる境遇の中で、此の大自然を自由に操る偉大なる王者であり、まさに「摩訶」なる存在と言えるのではないでしょうか。この疑問を解く為に禅宗の寺では坐禅という方法をとっています。私も海徳寺坐禅会に参加させて頂いていますが、早朝の禅堂の中に自分を置いて、複式呼吸を繰り返していますと、いつの間にか忘我の世界に引きずり込まれてゆきます。
 その時の様子はとても説明できるものではありませんが、敢えて申しますと、雀のチュンチュンが私か、私が雀のチュンチュンか、あるいは松を渡る風の声が私か、私が風の声か区別することのできない不可思議な境地なのです。私はこの時、大自然と共に今こうして生きている「摩訶」なる自分であったことを体験させて頂くのです。(次号は「般若」の二字に参ずることとします。)

(H7.8月 平林一彦様よりの寄稿、第3号につづきます)

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